四 手紙
聖世が山を降りきったのは未だ夕暮れ前であった。走るように駆け下りた。頂上で食べるつもりで、ザックの中に旅館でつくってもらった握飯を入れていたが、すっかり忘れていた。ともかく、下山するのが先であった。箱の中身がどうなったのか、手紙に何が書いてあるのか、気にはなったが、知るのが怖くて読みたくないという思いもあった。
山を下りると、あのユースホステルがあった建物のところにまで来た。洒落たロッジ風の建物はそのままであったが、もうユースホステルではなかった。人がいる気配はなかったが、きれいに管理されているのがよくわかった。周りは昔と随分変わっているが、湖に沿った道路は昔のままであった。ただ、湖にはボートも浮かんでいたし、車の往来もひっきりなしであった。バスを待つまでもなく、携帯でタクシーを呼ぶこともできた。夕暮れには未だ間があるこの時間、最初に来たときと違って霧はほとんどない。湖面に航跡を引いて数隻のボートが浮かんでいる。カップルらしいそれらのボートが、のどかで安全な湖畔であることを物語っていた。
聖世が呼んだタクシーがきた。昔、ユースホステルだった建物のところといっても通じなかったが、建物の特徴をいうとすぐに通じた。聖世は少し遠いが、昨夜に泊まった温泉街まで頼んだ。そして、車の中から昨夜の旅館に今夜の宿泊を予約した。部屋はグレードの高いものでよいといってある。そして、今からタクシーで乗りつけるから、すぐにチェックインできるように頼んだ。最高級クラスの旅館だけあって、聖世の要求は何一つ断らなかった。ただ、聖世が大悲山のふもとの湖の名を告げて、そこからタクシーで向かっているといったときは、少し引いたような声に聞こえた。やっぱり、ここはマイナーなんだと聖世は改めて思った。
車の中では眠っていた。気にはなったが、手紙を戻した箱はザックに入れたままタクシーのトランクに入れたので読み返すことはしなかった。浅い眠りのなかで夢を見ていたようだが、運転手に覚こされたときは旅館に着いていた。迎えの仲居らに挨拶をされて、ようやく現実に戻った。案内された部屋で、係りの仲居が淹れてくれたお茶を飲みながら雑談しているうちに落ち着いていた。仲居は、この旅館を今朝出かけて行った客が舞い戻って来たことを笑っていた。
ともかく、風呂に入ることにした。焦って手紙を読み直しても仕方ない。もう、時は過ぎたのである。埋めた直後に秘密は見られているのである。今さら恥じても仕方ない。もう、なにもかも過ぎ去った昔のことではないか。知らない人が知らないところで聖世の秘密を見てしまっただけではないか。このまま、掘り出したこともなかったことにしたって何が変わるというわけでもない。そう思える余裕が聖世にはできていた。まだその手紙を丹念に読んでいなかったからであるが。
春の遅い夕暮れに、朝とは違って、夕焼け空の赤を映している大悲山の山陰を、聖世は朝と同じ露天風呂の湯船から眺めていた。永い間の気懸かりを取り除く筈だったのに、思いもよらないことに出くわしてしまった。知られたくないことを知られて恥ずかしいというのは、自分が面識のある人に対してであろう。知らない人に見られたとて恥ずかしがるほどのことではない。自分を知らない人にそれをぶちまけられたとこで、知らない人と自分に接点がなければ、やはり恥ずかしがる理由はない。
風呂からあがって部屋に戻った聖世は、食事が運ばれてくるまでに冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。冷えたビールが気持ちを落ち着かせ、むしろ未知の人からの手紙を読むことに楽しみさえ感じながら、ぶ厚い便箋の束をゆっくりと開けた。
聖世邦夫さま これをあなたが見てくれるのは何時のことでしょう。写真で見るあなた(この箱に入っていた貴君と彼女の写真です)はとっても若いです。もう、君なんていうのは失礼な年齢になっているかもしれませんね。あるいは、さほど歳もいかないうちこれを掘り出しに来たかも知れません。それとも、最後までこのままにして、あなたの思い出を封じたまま天国にいくのでしょうか。その時は、遂にお会いすることも、この手紙を読んでいただくこともできませんね。でも、これを読んでいるあなたは驚いたことでしょう。あなたの大事なだいじな思い出、宝物、ううん、聖世君流にいうとすると「想いの形見」がなくなっているのですもの。これは私がお預かりしますね。そして、私は確信しています。いつの日か、あなたがこの箱を捜してやってくることを、そして私と会えることを。そのとき、あなたがこの思い出のその後をどう生きたのか、なぜこれを取り戻しに来たのか、聞かせてもらえるのを楽しみにしています。私も、おはなししたいことがあります。そのときのあなたは、おいくつで、どんなお仕事をしているのでしょう。
中身はすべて見てしまいました。箱を開ける前から、これを埋めた人、すなわちあなたの何らかの秘密であることは予想がついていました。それなのにゴメンなさい。でも、私は偶然にこれを見つけたわけではないのです。ちょっとキザないい方をさせていただくなら、見えない何かに操られ手繰り寄せられていたような気がするのです。きっかけは、確かに、たまたまあなたのホステル日誌の書き込みを見た偶然です。
申し遅れましたが、私は刀環雪絵と申します。あなたよりは歳上の女です。世間ずれもそれなりにしております。そんなことから、あなたの写真をみていると、「聖世君」に語りかけそうになってしまいます。子供扱いにしているのではないですよ。でも、純粋過ぎて、むしろ微笑ましいくらいで、つい教え子に対するような気になってしまうのです。ただ、それは今この時点でのあなたの年齢を知っているからです。あなたが、何歳でこの手紙を見るかわかりませんものね。ですから、ちゃんと大人の聖世さんも意識してこれを書いています。
先ず、私があなたの秘密箱を見つけることになったことを説明しておかねばなりませんね。今は、あなたがこの箱を埋めた時から一年ほどしか経っていません。「そんなに早くに!」とあなたは驚いているでしょうね。でも、あなたが若いうちにこの思い出を取りに来てくれたのなら、私は、これをだれにも見せないうちに、だれにも話さないうちに、私の秘密のままあなたにお渡しできたでしょう。心配なのは、いつまでも、いつまでも、あなたがこれを取りにこないことです。私は老いてしまいます。これをどこに隠しておけばよいのか悩みます。だれにも話さないままでいられる自信もありません。わたしは、だれかに洩らしてしまうかもしれません。もちろんこれは、あなたの思い出であって、秘密とか恥部とかではないのですが、あなたがだれにも知られたくないと宣言してのですもの、そんなことは許されませんね。憶えていますか、ホステル日誌に書いたことを。
「今日、大悲山に過去を埋めに登る。だれもそれを捜さないでください。だれにでも、知られたくない過去の一つや二つはあるでしょう。そっとしておくのが人の良心というものです。大悲山で自死する人が多いと聞きました。ぼくは、自分の過去と想いをそこに埋めて葬別するのです。その骸は死臭など発しません。だから、そっとしておいてください。」
あなたは、なぜ私があなたの思い出箱を掘り出したのか、その上に、なぜその中身を取り出して私が持つようなマネをしているのかと憤慨しているでしょうね。ごもっともです。それなりの言い訳がないわけではないのですが、でも、その前に、あなたは本当にこの思い出箱を永久に大悲山に埋めて消滅させるつもりだったのですか。本気でそう思っていたのですか。私にはそう思えないのです。あなたは、過去を箱の中に閉じ込めてしまうつもりではあっても、この箱の中のものを完全に捨てるつもりでしたか。この世から消滅させる勇気がありましたか。もし、そうなら、どうして埋めるのですか。紙は焼いてしまえば消えます。物は潰してしまえばゴミです。そうしなかったのは、遺しておきたかったからではなかったですか。本当に知られたくないのなら、どうしてホステル日誌にあんなことを書きとめたのですか。私でなくても、あんな書かれ方をしたら、見てみたい、捜してやろうと思う人がいるのは当然でしょう。本当に隠したかったら、だれにもわからないように、いっさい人目につかないようにするべきだったはずです。わたしは、あなたがこれをタイムカプセルのように、その時の自分を残したくて埋めたのではないかとさえ疑っています。もし、私のその疑いが当たっているなら、あなたはもうすぐ私に会いにくるでしょう。捨て切れない「思い出」です。その形あるものを手元に置いて置きたいと願うはずです。見つけられる可能性がないと思えばそうするのではないでしょうか。そして、私に見られたことで会いにくるのを躊躇うでしょうけれど、来てください。そうでないと、思い出はお返しできません。もう、あなたは過去を自分史の一部と振り返ることができる大人になっているはずです。そして、私の勘ですが、この手紙を見ているあなたはきっとこの写真とあまり変わらない若者でしょう。私は、若いあなたに会えることを期待しています。
でも、来てくれないことにはなお不安があります。その一つは、あなたが秘密を知られたわたしという女に会わないと決めてしまうことです。そうです。あなたの名前も住所も知っている私が今まで何も連絡しなかったのですもの、このままでいれば無害ですものね。なかったことにできます。ですから、私は保険を掛けます。あなたがこの箱を取り出したとすれば、私にはそのことがわかる仕掛けがしてあります。それがどんな方法かは後でおはなししましょう。ほんとうは、お会いしたときに話してさしあげたいのですが、それでは私のいっていることが疑われそうですから。偽りはありません。ですから、あなたが今のようにこの手紙を見ていることは、私にはすぐにわかります。それなのに、あなたが現れないのなら、私はこれをあなたのお相手にお届けするかもしれません。あるいは、誰かに見せてしまうかもしれません。あなたは私のところに来るしか選択肢はないのです。嫌な女ですね。でも、抱えてしまったあなたの秘密と思い出をお返ししたいがためです。おわかりください。 今一つは、あなたが遂にこの箱を掘り出さないまま、いつまでも、いつまでも、これを捜しに来てくれないとしたら、私はこれをどうしたらいいのでしょう。私は、老いても、何時現れるかも知れないあなたのためにこれを持ったまま待っているでしょう。もう、待ち切れないとなれば、これは元に戻すことにします。その時は、この手紙も廃棄して、何もなかったことにします。それはそれで、悪いことではないような気がします。 でも、あなたがこれを読んでいるということは、私があなたを待っているということです。そして、必ず連絡してくださることを信じています。 連絡先は下記です。 京都市左京区下河原花屋敷町 刀 環 雪 絵 京都-535-5141
驚かれましたか。そうです。私は京都人なのです。 そちらに別荘を持っていたり、山を持っていたりしますが、これはご先祖にそちらの出身者がいたのでしょうね。かなりの土地とか山を持っております。京都の私のなりわいなどは、訪ねて来ていただいたらわかっていただけます。こういってはなんですが、おかげさまで日々の暮らしに働く必要はない身です。
最後に、なぜ私があなたの思い出箱を知ることになり、掘り出したかをおはなししておきます。 あなたがお泊りになったユースホステルは、元々私の所有する別荘でした。ホステルにしたのは、私があまりその別荘を使わなかったので、地元の人に頼まれてホステル用にお貸しすることにしたのです。民宿とかホテルとかなら断ったのですが、若い人たちが旅に出ることの援けになるのならと思ったからです。でも、失敗でした。多分、あなたも、ホステルにいたあの男に嫌な思いをしたのではないでしょうか。詳しい経緯はともかく、私はあのホステルのオーナーではあったのですが、もう閉鎖するところでした。ただ、あの男が居座っていただけです。現に、もう、あのホステルはなくなって、今は地元の若い方々に集会所として利用していただきながら、管理をしてもらっています。私も時々こうして来ます。ですから、その方々に大悲山のこの場所の観察をしてもらっています。でも、何かが埋められているなんてだれも知りません。このポイントを含めた辺りの定時観察をお願いしているだけです。実をいいますと、この大悲山は私の所有なのです。それはともかく、ホステル日誌は私がいつも目を通します。あなたがお泊りになった時期はほとんど宿泊者がいないときでしたね。私は、あの男との交渉がありましたから、近くで定宿にしている旅館に泊まっていました。そこへあの男を呼びつけていたのですが、日誌はその機会に持ってこさせたのです。あなたが泊まられてから二日後でした。 私は、とても興味を惹かれました。あなたが何かを大悲山に埋めたのはあなた自身が告白しているようなものでしたね。それはあなたの秘密の部分には違いないと直感しました。でも、そんな人の秘密を見たさにこの箱を捜すようなことはしません。私が恐れたのは、この日誌を見た人がこれを捜したり、ましてあの男がこれを見つけてしまわないかと心配したのです。なぜって、秘密にしておきたい思い出なのに、それを暴露されては困るでしょう。どんなふうに悪用されるかわかりません。あなたもお相手のお嬢さんも、私でも捜し当てることができるくらいの種がいっぱい残したままですよ。若い人って無用心というか、見つかることなんてないと信じているからでしょうね。でも、それは原因をつくったあなたの責任だから、どうでもいいことなんですが、何か私に感じるところがあったのと、あの男にだけは渡してはならないと思ったの。 私は、それとなくあの男に聞いてみました。日誌を読んでいるか、最近に大悲山に登ったことがあるか。大丈夫でした。あの男にはホステラーの書き残したものなんて何の興味もないらしく、読んでいる気配はまったくありませんでした。 それで、私はその翌日に大悲山に登りました。もちろん、あなたがこの箱をどこに埋めたなんて簡単にわかるなんて思ってませんでした。でも、わたしには確信がありました。あなたは、きっといつかこれを掘り出しに戻ってくると。それだから、薄れた記憶でも、もっとも混乱したり忘れりする可能性の少ない頂上を選ぶだろうと思ったのです。それに、この山の形状では、途中に埋めたいと思うような場所はないですものね。 その日は霧もなくてよく晴れた日でした。頂上に着くと、意外と見晴らしのよいことに気が付きました。あなたがお登りなった日はどうだったのでしょう。あなたが埋めた場所はすぐにわかりました。まだ、三日しか経ってないのですもの、土が掘り返された跡は隠しようもないです。それに、私有地でもあるこんな山に登ってくる人なんてほとんどいない時期でしたから。あなたって、ほんとうに無用心ですね。とても秘密を持つ資格なんてないとおもってしまいます。 そういうわけで、私がお預かりしています。ぜーんぶ見ちゃいました。あなたにとっては、とっても哀しい思い出ですね。でも、純粋で素敵です。だからこそ、だれかに見つけられるような脇の甘いことではいけないのです。わたしが、あなたの秘密を共有してあげます。私から、これを洩らすようなことはしません。でも、ヒミツってどこかで知られてしまうものですね。私も保証まではできません。だから、早く取りにきてくださいね。これが、私がこの箱を見つけたいきさつです。そして、この手紙をしたためて箱に入れて埋めたのは、その日から一年ほどしか経っていません。あなたの心の傷が癒えるにはまだまだ時間が要るでしょう。でも、新しい恋をしたら、この思い出を埋めたままにはしておかないような気がします。その時のあなたにお会いしたいです。なんだか、待ち続ける恋人のような心境です。 刀 環 雪 絵
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五 独り対話
手紙に日付はなかった。聖世は二度読み返した。
日付はなくても、もう、四〇年が経っていることはわかる。聖世がこの箱を埋めた時とこの手紙が書かれた時は、今の時点からみるならほとんど同一時期でしかない。その頃にこの手紙を読んだのなら、羞恥と後悔に身悶えしたとしても、この手紙の女性に堂々と会いに行っただろう。若いというのは力がある。若いというだけで許されることだってある。
しかし、四〇年前に「会いに来てください。待っています」といわれていたのが、今ようやく届いたのである。どう応えればいいのか。
風呂上りのビールが冷たくて美味い。落ち着いてみれば、気持ちは弾んでいた。
聖世は、その手紙と、手紙の主に向けて「独り対話」をした
-私は確信しています。いつの日か、あなたがこの箱を捜してやってくることを、そして私と会えることを。そのとき、あなたがこの思い出のその後をどう生きたのか、なぜこれを取り戻しに来たのか、聞かせてもらえるのを楽しみにしています。私も、おはなししたいことがあります。そのときのあなたは、おいくつで、どんなお仕事をしているのでしょう-
そのとおり、ぼくは、思い出を掘り出しにやってきました。
でも、あなたが想像してた頃よりもずっと後のことでした。その後をどう生きたかですか・・・、普通に生きたようにも思いますが、このことが根になって、いささか違う思想を持って生きたかもしれません。
人並に妻も娶りました。彼女以外の女性に恋することもありました。この体たらくはあなたが予想されたとおりでしょう。ただ、かなりの時間を要したことは、あなたの予想と違えていたかもしれません。それに、この思い出箱を埋めた後も、彼女に出会ったこと、二人で話したこと、いろいろありました。いえ、縒りを戻したわけではないです。思いがけないところで偶然に会うことが何度かありました。それも、最初のころ、ずっと後のこと、いろいろでしたが、回数は結構多いかもしれません。考えてみると、別れたカップルにしては不思議なくらいです。まだ生々しい記憶を抱えていた時代もあれば、すっかり大人になった彼女との出会いもありました。彼女は偶然を装って密かにぼくを待ち伏せしていたこともありました。ずっと後には、彼女から和解のシグナルが出ていたように思います。でも、ぼくは徹頭徹尾彼女を許す気はありませんでした。復讐を誓っていたのですから。とはいえ、決して彼女を責めたことはありません。未練は隠せなかったように思います。すっかり大人になった彼女を見て失望していたくせに。
おいくつといわれても・・・ぼくは歳をとりました。ぼくよりも年上だとおっしゃるあなたは、この時になっても、ぼくのことを憶えておられるのでしょうか。まだ、ぼくがこの思い出を捜しに戻ってくることを信じておられるのでしょうか。
-心配なのは、いつまでも、いつまでも、あなたがこれを取りにこないことです。私は老いてしまいます。これをどこに隠しておけばよいのか悩みます。だれにも話さないままでいられる自信もありません。わたしは、だれかに洩らしてしまうかもしれません-
なんということでしょう。あなたは、今のぼくが恐れていることを、その時点でもう予見されていたのですね。それだけに、今のあなたは大丈夫なのかと不安になります。ぼくの思い出はもはや隠さねばならないほどの秘密ではないですが、でも、洩らしてしまわれたのでしょうか。もちろん、意識されてそのようなことをされるはずはないでしょうけれど、おっしゃるとおり、人は老いには勝てませんし、心の封栓も弛むでしょう。でも、ぼくよりも何十年も早くに、そのようなことに気付いておられた方であったとは、ぼくは幸運だったと思っています。恐らく、今のぼくのように、本当に心のなかに閉じ込めておくことの不安定と不安を自覚されたら、これまでに何らかの手を打って対処されているでしょう。
-憶えていますか、ホステル日誌に書いたことを。「今日、大悲山に過去を埋めに登る。だれもそれを捜さないでください。だれにでも、知られたくない過去の一つや二つはあるでしょう。そっとしておくのが人の良心というものです。大悲山で自死する人が多いと聞きました。ぼくは、自分の過去と想いをそこに埋めて葬別するのです。その骸は死臭など発しません。だから、そっとしておいてください-
忘れていました。そんなことを書いていたのですね。
あの日の朝の出発は少し興奮していたのだと思います。いよいよ亡んだ想いの形見を埋めるのだ、捨てるのだと思うと、その後の自分がどう変わるのか想像がつかなかったです。死にたいと思っていたのではないのですが、生き続ける自信がなかったように思います。だれもいない食堂で一人だけの朝食を済ませて部屋に戻ろうとしたときに、食堂の片隅に置かれていた日誌に気付いたのです。書かれているのは、多くはなかったですが、傷心の一人旅をしている方の書き込みが目に付きました。もう、内容は忘れましたが、その人は先に大悲山に登ってこられたようです。「何もない山だけど、だれもいない山頂はもの想うにはよかった」というような内容でした。それに触発されてぼくもあんなことを書いたのでしょう。ひょっとすると、もう、自分がこの世界から消えてしまうかも知れないので、何か書き遺したかったのでしょうか。
-わたしは、あなたがこれをタイムカプセルのように、その時の自分を残したくて埋めたのではないかとさえ疑っています。もし、私のその疑いが当たっているなら、あなたはもうすぐ私に会いにくるでしょう-
確かに、今はタイムカプセルを取り出しに戻ったような気もしなくはないです。しかし、こんなに年月が経ってからです。だからこそ、タイムカプセルになるのではないですか。あなたの疑いが当たって予想されたように、間もなく戻ったとしたら、思い出の残骸に未練があって拾い出しに来ただけではないですか。
忘れていたわけではないです。彼女を忘れなかったように、大悲山を忘れることはなかったです。もちろん、それは彼女への想いが断てなかったというわけではないです。そういう自分がいたということを生き続ける日々が延びるにつれて思い出されたということです。
-来てください。そうでないと、思い出はお返しできません。もう、あなたは過去を自分史の一部と振り返ることができる大人になっているはずです。そして、私の勘ですが、この手紙を見ているあなたはきっとこの写真とあまり変わらない若者でしょう。私は、若いあなたに会えることを期待しています-
どうしましょう。もう、決して若くはないです。そして、それ故にぼくは躊躇します。
-偽りはありません。ですから、あなたが今のようにこの手紙を見ていることは、私にはすぐにわかります。それなのに、あなたが現れないのなら、私はこれをあなたのお相手にお届けするかもしれません。あるいは、誰かに見せてしまうかもしれません。あなたは私のところに来るしか選択肢はないのです-
今もあなたの保険は生きているのでしょうか。
本当に、今日、ぼくがあなたの手紙をこうして読んでいることをあなたは察知しているのでしょうか。あの日から、数年の間のことなら疑わないでしょう。しかし、もう、四〇年も経っているのです。とっくにお忘れになっていても不思議ではないでしょう。そんなに長い間を待てるのでしょうか。恋人だって待てません。まして、一面識もない人間をそれほど待てるとは思えません。あなたが、ぼくの何に興味を持たれたのか知りませんが、箱の中にあったものは、他人には滑稽な失恋記でしかありません。その哀れな男の顔が見てみたいという興味なら、見られなかったのは残念でしょうけれど、今もその男に会いたいなどと思っておられるとはとうてい考えられません。
いえ、文面から、あなたが人の心を弄ぶような方だとは思っていませんが。
-今一つは、あなたが遂にこの箱を掘り出さないまま、いつまでも、いつまでも、これを捜しに来てくれないとしたら、私はこれをどうしたらいいのでしょう。私は、老いても、何時現れるかも知れないあなたのためにこれを持ったまま待っているでしょう。もう、待ち切れないとなれば、これは元に戻すことにします-
そうなってはいなかったです。
しかし、ぼくが老いたのですから、あなたも間違いなく老いておられます。待ち切れなくならなかったのでしょうか。今も待っておられるなんて、どうして信じられるでしょうか。
-驚かれましたか。そうです。私は京都人なのです-
驚きました。
あなたが、その気になれば、ぼくのことを調べ、ぼくに気付かれずにぼくを監察することだって出来たわけですね。
-こういってはなんですが、おかげさまで日々の暮らしに働く必要はない身です-
おいといのない、結構なご身分なのですね。
それなら、おそらく、ぼくのことはお調べになったでしょう。ただ、若い時のぼくにとどまるのでしょうか、それとも、現在のぼくまでご存知なのでしょうか。この堕落し切ったぼくを知っているとおおせなのでしょうか…。
-今は地元の若い方々に集会所として利用していただきながら、管理をしてもらっています。私も時々こうして来ます。ですから、その方々に大悲山のこの場所の観察をしてもらっています。でも、何かが埋められているなんてだれも知りません。このポイントを含めた辺りの定時観察をお願いしているだけです-
なるほど。山頂の定時観測をされているわけですか。もし、土を掘り返すような変化があれば、即、あなたに連絡がはいるということでしょうね。それなら、ぼくの今日の掘り返し方、それを放置しての下山ですから、間違いなく気付かれますね。しかし、定時観察はどのくらいの間隔で行われているのでしょうか。それに、今もなおそんなことを続けておられるのでしょうか。あの山の定時観察にどんな意味付けをすれば、地元の人の協力をそこまで繋ぎ留めていられるのでしょうか。ぼくは、やっぱりあなたがもうそんなことはしておられないという気がします。どう考えても四〇年は長過ぎました。
-あなたの心の傷が癒えるにはまだまだ時間が要るでしょう。でも、新しい恋をしたら、この思い出を埋めたままにはしておかないような気がします。その時のあなたにお会いしたいです。なんだか、待ち続ける恋人のような心境です-
ぼくの心の傷が癒えることは遂になかったのかもしれません。だからといって、人生を投げたわけでもなく、新しい恋などしないはずだったのに、懲りずに恋もしました。でも、思い出を掘り出そうとは思いませんでした。それは、恋をしたからではないです。忘れたわけではないです。でも、ご心配されたような、だれかに見つけられるなどとは思いませんでした。大悲山は、ぼくの想いの墓場であり、秘密を封印した所だといつも思っていました。それは、ぼくに勇気をくれたのも確かでした。この後に、何度も彼女に会うことがあっても、大悲山のことを思うと落ち着くこともできました。あれは、そこに在ると思えることがよかったのです。
ですから、遂に今日まであなたを待たせてしまいました。
私は、それを始末するためにきたのです。もう一度見てみたい懐かしさはもちろんありますが、それが目的ではないのです。老いきってしまう前に、自分の手で消滅させるつもりでやってきたのです。あなたの恋人は老いました。それでも、まだ待っていてくれるのでしょうか。
聖世は、ドキドキしながらこの手紙との対話をしていた。そして終った。深いため息をついた。とんでもない困惑の原因を掘り出してしまったようである。この手紙の女性に会いに行くべきかどうか。さて、どうしたものか。聖世は考え込んでいた。
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