おばけの夜噺
第二夜
ほな、せっかくやし、おばけの話をちょっとだけ付け足さしてもらいます。花街では、節分になると「おばけ」というお座敷遊びがあります。ちょっと前までは、花街だけやのうて、祇園町さんとか、五番町さんのクラブやスナックでも賑やかにおばけしてはったそうどす。貧乏神の先生は、クラブでドレスを着て女装させられたことがあるてゆうてはりました。うちらの生まれてもいん大昔のことどすやろけど。
昔は普通のお家でもしてはったということどすけど、これはあやしいとおもうてます。屋形のおかあさんとか、おおきいお姐さんに聞いても見たことはないということどす。昔から京都に住んだはるお客さんに聞いてもそうどす。よっぽどの昔やったら知りまへんけど、仮装して変身しはるようなことはなかったんやとおもうてます。ただ、女ごさんらは、普段とは違うて、髪を『われしのぶ』で結ったり、ちっちゃい女の子に紅を付けさせたりするようなことはしてはったそうどす。ときどき、京都の町衆の文化やったとかいうて、普通のお宅でもおばけをしたはったような記事も見ますけど、そんな、だーれも知らーらへんなんておかしおすやろ。うちはほんまかどうか怪しいとおもうてます。そやけど、うちらのような花街では、節分には『おばけ』することになってるんどす。しこみさんのときから見てきました。
お茶屋さんで、お客さんが「もうすぐ節分やなー」なんて話題を出さはると自然と今年のおばけの話になります。まぁいうたら仮装大会のようなもんどすけど、芸妓や舞妓がするのを知ってくれたはるお客さんもこのごろはめずらしいことおへんどす。そやからいうて、ほんとにおばけを見にお座敷にきてくれはるわけではないのどすけど。このごろは、仮装したうちらをカメラを持って追い駆けはる人がいて、うちらは仕方ないとおもうてるんどすけど、お茶屋さんの入り口を塞ぐようなかっこうで写真を撮らはると、うちらも入れへんし、そこに来合わせたお馴染みさんかてシラケますやろ。
これも、おにいさんに聞かせてもろたことどすけど、大阪の新地なんかでは、今でも、それは、それは、たくさんの仮装ホステスさんがいはって通りを歩いたはるそうどす。なかには、私ら舞妓や芸妓の衣装をつけたはるお方もけっこういたはるそうどす。お店のホステスさんが日ごろと違ったお衣装着て、なかには顔とか髪をおもいっきり変えたりしてはると聞きましたけ。なんかおもしろそうどすね。そやけど、京都の昔からの行事やと聞いてますのに、なんで大阪なんどすと聞いたら「結局はニッパチの客寄せや」というたはりました。そういえば、お正月や新年会で忙しい一月と違うて、うちらもちょっと息抜きができるのはこのころどす。そやけど、うちらのおばけは単に変装するだけと違うて、かくし芸を見てもらうのどす。舞妓や芸妓が二人とか三人で組んで一緒におもしろいお座敷芸をするんどす。それに合わせてお衣装も選んで、せりふやおどりも練習するんどすけど、これがしんどいのどす。それぞれがお座敷が終わってからでないとそろってお稽古できませんので、いっつも遅うからしかできしまへん。それが終わってから白塗り落として、着物たたんで、お風呂に入って、やっと寝るのどすさかい、もう明け方になるんどす。そやけど、いつもとは違う、ちょっとふざけた姿でご贔屓さんに見てもらうのも楽しおすし、お客さんらもよろこんでくれはるのが嬉しおす。
そのお座敷廻りもようやっと終わりました。そやけど、今年のうちはおかしおす。昨日から、仮装のお衣装を解いて、お化粧を落としても、なんか本当の自分に戻れてへんような、自分がのっとられてるような気分どす。きのうの夜とおんなじで、みんなが疲れて眠てしもうてるのに、ちっとも眠むれへんのどす。それに、きょうもきつう冷えます。また、熱ーい焼酎のお湯割り飲んでますと、この前のお話の続きをしんならんようになってきました。もうちょっと聞いとくりゃすか。
怨念の憑いたおたから
前にお話した「貧乏神の先生」が言わはるには、お金とか財産のなかには、怨念とか執念みたいなものが確かにまとわり憑いてるのがあるのやそうどす。お金はだれでも欲しいにきまってるし嫌いなはずはないのに、不思議どす。そやけど、先生が言わはるには、お金とおなごほど恐いもんはないそうどす。貧乏神さんはそれから護ってくれはる大切な神さんやそうどす。そうかもしれへんと思うようになったのは後からのことどす。聞いた時は、『貧乏神さんとご一緒したはるような先生なんて』と思っていたんどすけど。
そうそう、実はこの貧乏神の先生が、なんとあの探偵のおにいさんとお知り合いで、お兄さんがいろいろ教えてもろてるというてはった弁護士さんというのはこの先生やったんどす。この先生やったら、うちはよう存じ上げてます。そやけど、この先生のお座敷は妙に縁遠くて、ここんところ、あんまりお会いできしませんどしたし、おにいさんが先生のお名前を言うてくれやらへんかったんで気付かなかったんどす。
めずらしく先生のお席に寄せてもらう日がありました。ただ、その日、うちは宴会の後もお客さんにお付き合いする「かいきり」の日どしたから、「弥生」さん寄せてもろたんはそれが終わってからで、かなり遅かったんどす。うち、宴会のお席で「逢情」をもろたんで、先生が来たはるのは知ってたんどすけど、なかなか前のお客さんが放してくれやらへんかったんどす。そんなんで、うちが弥生さんに行ったときは、もういたはるお客さんは先生だけどした。
「貧乏神いうのは、お金が入らへんようにもしよるけど、あったらあったでせいざい費わせて貧乏にもしよる」「だから、ぼくは貧乏してるけど、つゆちゃんに会いにきてつこうてます。この神さん、つゆちゃんのファンと違うか」
あいかわらず、先生のきょうと弁と関西弁のへんてこなこと。それに、うちらの花街言葉もつられていわはるのでおかしおすけど、お遊びに来てはるときくらいよろしおす。
「うちはそんな神さん遠慮させてもらいます。そやけど、せんせを遊びに連れ出してくれはるんやったら大事にしたげなあきませんね」
「そうや。そういうてぼくらを貧乏にするんやから、みなさん方が貧乏神とちがうか」
「なにゆうたはるんどすか、うちらこそ福の神どすのに。せんせ、そんな憎まれ口ばっかりゆうたはるさかい嫌われるんどすえ」
「ああ、そうや!ぼくはこの花街のゴキブリや。害虫や。いっつも舞妓ちゃんや姐さん方から新聞紙丸めて追っかけられてるんや」
「またゆうたはる」「せんせ、そないなことばっかりゆうたはったら、ほんまに魔ーさんにとり憑かれはりまっせ」
「魔ーさんがこわーて弁護士ができるか!恐いのはおなごと怨霊のついたお金」
「また変なことゆうたはる」「そやけど先生、お金は『血と汗の結晶』ていわはりますやろ。なんで魔物になるんどすか。血がいかんのどすか」
「血と汗の結晶というのは働いて貰うお金という意味でしょう。そんなんはきれいなお金の典型や。だいいち、汗して働いてもらうお金なんてしれてるもんな」
「お金の多寡で決まるんどすか」
「そうやないけど、量が少なかったら、悪いのが憑いとってもあんまり悪さする力がないやろ」
「おかしいことおへんどすか。お札の一枚ごとに怨霊が憑いてるんどすか」
「ちがう。金額ごとや。10万円と一億円とでは怨霊の強さが違ってくるやろ。それにな、ゲンナマに憑いてるわけやないんや。それやったら洗浄できるんけど、銀行に預けてあってもあかんのや」
「先生はどないあっても怨霊とか怨念に結び付けたいのどすか。お金が魔物になるのではのうて、お金が人を魔物にすると言われてるのとちがうんどすか?」
「それは金が人を狂わすという例えやろ」「ぼくがいうてるのはちがうんや。お金を掴むことになった原因とか理由のことや。そこに問題があると、そのお金をどんな形で持ってても祟るというてるんや」
「泥棒してつかんだお金なんかどすか」
「まあ、かすめ取るくらいなら、よっぽどでないと祟るようなことはないやろ。そやけど、年寄りの生活資金を盗むとかは祟るで。その意味では、年寄りから年金手帳を取り上げて、高利で金貸して巻き上げとるような罰当たりは許せへん!」
「先生のお話は、あくどいことしてお金を盗る人にはバチがあたるということどすか。そんなん、怨霊でも何でもないどす」
「あのな、つゆちゃん。普通の人が真面目に一生懸命働いても稼げるお金なんてしれてるものや。そら、ぼくらと違うて、つゆちゃんはお金ようけ持ってるとはおもうけど、それは大丈夫なんや。いくら男がで貢いだもんだとしても、つゆちゃんがもらうのは問題ないのや」
「いややわー!!うちら奉公人の舞妓がいただけるもんてわずかどすえ。そないにお金持ってるわけないどす」「それに、なんちゅういわれ方どす!『貢がす』やなんて」
「ハハハ、奉公人はよかったな」「まぁ、つゆちゃんならようけ預金もあるとは思うけど、それはぜんぜん大丈夫やから、心配せんと、しっかり儲けてんか」
「そんなことおへんと言うてますやろ!」
「わかった、わかった、そんなにふくれんでも」「…それでな、言いたいことは真っ当なお金なら問題ないということだけ。舞妓ちゃんに貢ぐなんて、どだい無理やんか。つゆちゃんになんぼ惚れても、よそのお座敷やお呼びもあるやろし、貢いだかて来てもらうのもままにならんのに、続くわけないやん」「それに、お金でなんとかなるわけやないやろ」
「あたりまえどす。うちらは、せんせみたいに厭味ばっかり言わはるお人でも大事にしてますやろ」
「『お金も持ってへんのに』やろ?」
ほんまに、この先生、風采もあがらへんし、お金があるようにも見えへんし、貧乏神は連れてきはるし、いややわー。
「つゆちゃんは、魔物とか物の怪が何かにとり憑くちゅうことは信じひんか?」
「ちょっとまえどすけど、遺産相続がどうとかで、気持ち悪い話を聞いたことがありますけど」
「そうか。ぼくもちょっと扱ってるんやけど、因縁がある遺産を相続なんかしたら、えらいことになるという典型例かもしれん」
ここで、先生にその事件のことを話してもらったんどす。そしたら、なんと聖世先生は探偵のおにいさんとお知り合いで、しかも遺言書の下書きを書いてあげはったのもこの先生やったということがわかったんどす。うちもおにいさんから聞いた話をだいたいしたんどす。先生もびっくりしたはりました。
「そうやったんか。つゆちゃんは知ってたんか…」「それやったら続きを話したげてもいいけど、それがまた恐ろしいことになってるんや」
「その前に、難しいてようわからへんのどすけど、おにいさんが持ってはるという葉書がそんなに問題なんどすか?」
「あぁ、あの葉書な…。まさかこんなことになるとはおもわんかったけど、あれもぼくが教えたんや」「たしかにあの葉書がなかったら、奥さんが遺言書を隠したところで終わってたはずや。そら、裁判してでも死んだ亭主の執念は実現してやりたいとおもうけど、それは嫁はんには盗られとうないという執念だけのことや。ぼくとしては忍扶さん(『しのぶ』さんといいます。遺言しはったお医者さんの彼女どす)と臣(『ジン』と読むそうどす。ご本人どす)が子供のためと言うから少しは力になろうとおもったけど…」「前妻さんの保険金についた怨念と、後妻さんの嫉妬と執念、それに本人の執念と恨みやで、そら凄いと思うよ」「もう、なんとかしてあげなならん人はいないんやから、葉書なんか放っとけばよかったのに…」
「どうかしはったんどすか?」
「これから言うことはな、ちょっと難しいかもしれんけど、この事件がいかに祟られてるかということや。かなり恐い話や。それでもええか?それでも聞きたいか?」
うち、いうてしもたんどす。いわんでもいいのに。
「聞かしとうくりゃす」
怨 霊 遺 産
「死んだ臣はお医者さんやった。仕事は順調で儲けてもいたけど、診療所を新しく建てたり、新しい医療器械を導入したりしてかなりの借金もあったらしい。それに、薬や部品の仕入代とか外注の検査費用なんかも意外とたくさんたまっていたらしい。ぼくは敬遠されてたから、奥さんからは何にも相談されてなかったけれど、患者さんにはぼくのクライアントもいるし、腱而(『ケンジ』さんというそうどす。探偵のおにいさんどす)から相談も受けていたので、わりあい内幕の情報もはいってきていたから聞いていたんや」
「お医者さんとは聞いてましたけど、お医者さんやのに、お塩で殺されそうになるとか、お風呂の事故で亡くならはるとか、変どすね」
「医者いうのは意外と不養生なもんや。臣も過去はいろいろあるんやけど、ま、今さらそんなことはどうでもいいんやけど、前の奥さんの生命保険金を全部もらってしまうことになったんが始まりやな」
「前の奥さんは自殺しはったと聞いてましたけど、そんなにようけ掛けたはったんどすか」
「金額は3億円ほどやったとおもう。そやけど、べつに保険金目当てに掛けてたわけではないんや。保険会社の勧誘を断り切れんで入ったものが積もっていったというのが実際のところやと聞いている」「しかし、金額が大きかったのが悪かったというわけやない。あいつが今の嫁さんとできて、前妻さんが狂って自殺したまでは仕方ないと思う。そのときの保険金を女のいうままに全部受けとったことや。いくら自分が受取人になってるいうても、奥さんの身内かていたんやから、その人らに貰うてもらうべきやった。保険をかけられていたのは奥さんなんだからね。むしろ自分は遠慮して親御さんやご兄弟に全部もらってもろてもよかったくらいや。もらった側には税金がかかるかもしれんど、それが怨念などを浄化することになるもんや」
ここで、先生は『ふーっ』って息をつかはって、ポケットからマイルドセブンを出して口にはさまはったんどすけど、火をつけるのは辞めはって、お酒のグラスの方に手を伸ばさはりました。なんか、少し息苦しそうに見えました。
「亡くならはった奥さんは自殺しはったんどすやろ。しかも、だんなさんの浮気がもとで。そら親御さんらにしたら、死亡保険金をだんなさんが全部もらわはるというのは複雑どすやろね」
「うん、ご両親にしても、お金なんかほしいわけではないけどな。臣が全部もらうということは、やがては次の嫁さんの金になると想うてしまうやろ」「その嫁さんが、ある意味では娘を死なせた張本人なんだから、そらやりきれんと思う」
「今の奥さんが全部とらはったんどすか」
「そんなことはできんけど、臣の預金や債券・証券の半分くらいは自分の名義にしてたはずや。女に言わせると、万一の相続税対策やとか言ってたけど、万一を自分でつくり出しよったんかもしれん」「そやけど、そんなお金は呪われてあたりまえなんや」
「そうどすね、うちもお聞きしながらそう思いました」
「こっからが、その呪いというか祟りというか、だんだん異様なことになってくるんや」
「なんか、またきしょく悪うなりそうどすね」
「さっき言うたように、臣には思ったよりも借りがあったんや。診療所も閉めんならんけど、看護師さんや事務職の従業員の退職金も払わんならんし、いろんな仕入代金も払わなあかんやろ。診療所の建物は銀行の担保で一杯やけど、預金も自宅もあるからこの人らに迷惑かけんでも十分整理できたはずなんや」「嫁さんさえその気で債権者らに支払いをしてくれたらよかったんやけど、相続放棄という奥の手を使われてしまった」
「え?相続の放棄って、相続はしませんということどすか。ほな、どうなるんどすか?」
「借金は返さんでもよいことになる。ものすごう無責任やけど、そこまでは仕方ないかもしれへん。財産も相続できんようになるのやから」「びっくりしたんは死因贈与契約をしてたと言われたことや」
「『しいんぞうよ契約』どすか?前にもおにいさんから聞きましたけど。
「腱而が言ってたか…」
「それがあったらどないなるんどすか?」
「相続放棄はしたけど、死因贈与契約書に書いてある財産は全部もらえるんや。だから、自宅の不動産も預金も有価証券も、ええとこは全部もらえることになる。そのうえに、借金は放棄したから引き継がんでもかまわんということになる。すごいやろ」
「そんなことできるんどすか?」
「そのうえに、贈与税ではなくて相続税でオッケーなんや。基礎控除は使えるうえに配偶者の特例が全部つかえるんや。これで相続税はゼロやで」
「そんなん、おかしおす。相続放棄しといて、財産のええとこはもろうて、奥さん用の特権も使えるんどすか?」
「そうなんや。財産の半分がまだ臣のものやったとすると、2億5000万円くらいが遺産になるはずやけど、もしこれを贈与してもらったんやったら1億2220万円の贈与税を払わなあかんはずや。それがゼロで、借金は相続しなくてもええんやからね。笑いが止まらんというのはこのことやろな」
「なんで税金がゼロになるのかわからしまへんけど」
「納得できひんか。相続税はな、夫婦の間で引き継がれる分はあんまり税金なんか課けへんのや。どうせまた近いうちに相続になって子供が相続するときに課けたらええというわけや。だから『配偶者軽減特例』というのがあって、最大、配偶者の相続分までは税金が課かからへんことになってるんや。そうすると、臣の場合は嫁さん以外に子供も親もいなかったから、嫁さんが100パーセントの相続分になるやろ。そやからマルマル非課税なんや。死因贈与で財産を贈与された場合も税金は遺言でもらったんと同じ扱いをするということになってるから、贈与なのに配偶者の特権が使えるのや。その上にやね、たとえ相続放棄しても死因贈与の効力には影響ないし、おまけに配偶者軽減特例も使えるんや。え、やっぱりすごいやろ」
先生いうたら、もう関西弁がとまらへんようどす。
「それでおにいさんが『ウルトラEかもしれん』とゆうたはったんどすね」「そやけど、臣さんは今度生まれはった子供さんにそれをしてあげたはったんとちがうんどすか」
「例の葉書のことか」「あれは、遺言書を書いてあることを忍扶さんに知らせておくべきやと思ったのと、もしも臣に借金がようけあるような場合とか、最悪、遺言書が見つからない場合にも役に立つやろとおもうて、念のためにしておいたらとアドバイスしたもんなんやけど、いまさらやけど、するべきやなかった…」
「なんでおんなじものを別々の人にあげるというのが二つもあるんどす」
「それやけど、可能性としては、嫁はんが後から偽造しよったんが一番と違うやろか」
「『偽造』って、なんどすか」
「そういう契約書を勝手に本人の名前でつくることや」
「そんなことができるんどすか?」
「遺言書やったら自分で書かなあかんから無理やけど、契約書やからなんぼでもできるんや」
「なんでどす?」
「そら、ワープロで作ってもええし、名前も住所もワープロで打てるやろ。手書きで名前を書かんならんということもないやろ、ただの契約書なんやから」「判子はもともと家にある筈やし、嫁はんが自分で押したらしまいや」「つまり、自分の名前を受贈者としてワープロで書いて判子を押して、それから贈与者の臣の名前もワープロで書いて判子押せば完成や。贈与の契約書なんて、つくろうとおもえばいくらでもできるいうことや」
「恐いどすねー」
「もっと恐いのはその結果や。看護師さんらは患者さんらを放っとけへんしお世話もしたはったけど、お給料も退職金も払ってもらえへん。取引のあった業者は売掛金を支払ってもらえへん。奥さんは『相続放棄したんやから、主人の財産には一切手を触れることはできません』と言うてるそうや。そのくせ、預金も自宅も死因贈与で贈与されたから自分のものやと言えるわけや。そら、債権者の人はたまらんやろ。それで、とうとう債権者のなかから自殺者が出たんや」
「ひゃー!また自殺者が出はったんどすか」
「だから、呪われてるんや」
「ほんまどすねー。そやけど、なんで奥さんはどうもないんどすか?いちばん祟りがありそうにおもうのどすけど」
「これからかもしれんな。そんな悪いことしてタダで済むとは思えんけどな」
「葉書はもう効力がないのどすか?」
「そんなもんに頼るつもりはないけど、効力がないのかと言われたら、そんなことないと言いたい。こちらは臣が自筆で書いた正真正銘の本人の書面やもん」
「奥さんが持ったはるのが嘘の書類やと証明できひんかったらどうなるんどす」
「ええとこ突いてくるなー。つゆちゃん弁護士になったらどうや」
「なにゆうたはるんどす。先生も貧乏神さんと遊んでんと、正義の味方のカッコいい弁護士さんしとうくりゃす」
「臣の嫁さんのやってることは確かにエグイけど、呪われた財産なんか貰わん方がええんやで」「それはともかく、遺言とか死因贈与とかいうのは、後から作った方が優先するんや。前後で矛盾してたとしたら、偽造とかが証明できんでも、後のが優先して、前の分を取り消したことになるんや」
「奥さんの持ったはるというか、つくらはったもんよりも葉書の方が後やてわかるんどすか。日付かていくらでも後の方につくれますやろ」
「そら、何時付けの死因贈与契約書になってるか知らんけど、こっちは絶対に自信があるで」
「なんでどす?」
「あの葉書が忍扶さんに届いた直後くらいに臣が死んだんやろ。その葉書には消印がしてあるはずやね。だから、日付としては公的な証明が付いてることになるでしょう」「嫁はんが書類をつくるとしても、ある程度前の時期の方が怪しまれへんと考えるのと違うか。いくらなんでも、相手が死ぬ直前というのは避けるとおもうで。直近でも、葉書よりも後ということはないやろし、逆にそんなに接近していたら、本人が同時期にそんな矛盾することをしてたことになって、ワープロで作った書類は全然信用されへんのとちがうか」
「すごーい!ほな葉書を持ってる方が勝てますのやね」
「勝たんでもええのや」
「探偵のおにいさんはどうしはったんどす?葉書は忍扶さんのお身内には見せとうないとゆうたはりましたけど」
「腱而のことか。彼は別に探偵というわけやないんやけど、忍扶さんと臣の間に立って、両方からいろいろと相談されてたみたいや。たしかに葉書はいちおう親御さんに見せて、それがどういう意味をもってるか説明しておくように言うたのはぼくや。仕事柄、そう言わざるを得んかったやけど、今は後悔してるんや」
「なんかあったんどすか?」
「初めは、ご両親もお姉さんも、そんなお金をもらったら後が恐ろしいと言うて、何にも知らんかったことで結構ですと言ってたそうや。しかし、腱而は臣の嫁さんが許せんかったんやろな。財産は全部自分のものにして銀行の借金は返さへんし、看護婦さんや債権者が困っていても、泣いていても知らん顔してるんやからなぁ、鬼女にも夜叉にも見えるよな」「腱而が、葉書こそが正当な遺言になるし、それを使えばあの女から遺産を取り戻して、泣かされている人も助けることができると両親を説得したらしい」
「そら当然やとおもいます。先生、お味方してあげとくりゃす」
「嫌じゃ!そんな金とったかてどうなるもんでもないやろ。人の命の代償やで。しかもええとこ取りするのはおんなじや。きれいごというてるけど、本当は金額も大きいし、親の方に欲が出てきたんや。本心はもう金に執着してるはずや」
「そのお金で、看護婦さんらの退職金やら、債権者の人やらに支払ってあげるのやから、よろしおすやんか」
「そんなことするわけがない。そんな義務がないのに支払うとは思えへん」「臣の相続人になったんなら借金の返済をしてあげることになるけど、そのためには死んだ子供の認知請求からしんならん。わざわざ借金背負うためにそんなことするか?」
「ほな、どうなるんどすか」
「結局は、葉書が勝つのか嫁はんが作った書類が勝つのかの喧嘩になる。嫁はんと忍扶さんの親との争いになるやろ。『臣が世話になった人らに何かしてあげる』なんてことは眼中にはないはずや。怨念と怨嗟とがバトルして、怨霊が嬉々として飛び廻りよることになる。そういう金や」
「そやけど…」
「スッキリしんのはわかる。理不尽やというのもわかる。そやけど、放っとくのがええのや」
「そやけど、葉書の方が勝って先生ゆうたはったんと違うのどすか?それやったらまだ許せるんどすけど」
「多分な。ぼくも腱而にそう教えた。それがあいつを狂わせてしもたんや」
「え?おにいさんがどうかしはったんどすか?」
「このお店のお客さんやったと聞いて、言いとうなかったんやけど…」
先生はそばで聞いたはった女将さんの方を向いて訊かはりました。その時まで気がつかなかったんどすけど、女将さんの顔色は真っ青でした。
「女将さん、腱而はこのごろ来てへんやろ」
「ええ、しばらくお見えになってません。入院しはったとか聞いてます…たしか、精神科の方ということでした」
「そやろ。あの葉書に怨霊がとり憑いてたんや。それを腱而はわかってたんや。そやから『捨てたらあきませんか』とぼくに訊きよったはずなんやけど、いらんこと言うてしもた」「あいつは忍扶の親に、葉書に書いてある財産、つまり子供に遺言しておいた預金とか有価証券がどのくらいの値打ちがあるか、これで嫁はんと勝負するのが死んだ臣、忍扶、子供らの無念を晴らすことになるはずと吹き込んでしもたんや」
「先生、そのお話、うちのお二階の部屋でしたはったんやとおもいます」
女将さんが、うちとせんせの話に入ってきはりました。
「ちょっとないしょの話やから二階を貸してほしいということでした。お連れさんがご年配のご夫婦でしたから、たぶん、それがいうたはるご両親やったんとちがいますか」「ないしょの話をするということでしたから、私らもお料理とお酒を持って上った後は呼ばれるまで行ってへんのどす」「お帰りのときはちょっと難しい顔してはりましたけど『またお近いうちに』というて送らせてもろたんどす。たしか、お連れさんを京都駅まで送るとかいうてはったとおもいます」
「病気のことはいつ聞いた?」
「それが、ついこのあいだですけど、送ったままになってるお店の請求書を持った女の人が来られたんどす。それで『お支払いに来ました』と言わはるんで、うちはてっきり奥さんやとおもうて、ちょっと慌ててしまいました。そらそうですやろ、いきなりですさかい、どないご挨拶してええんやわからしませんやろ。それほどふるいお客さんでもないし、ご家庭で、うちらのお店に来ていただいてることもお話ししてくれたはるかどうかも知りませんし」「それで、『どうかしはったんどすか』とお尋ねしたんどす。そしたら、ちょっと体調崩して入院してると言わはるんどす。びっくりしましたけど、そんな詳しいことも聞けへんし『早よ良うなって、また元気なお顔を見せとくりゃす』というたんどすけど、『ちょっと難しいかもしれません』と言わはるんどす。それが、えらい冷とうおっしゃるんで、やっぱり気ぃわるうしたはるんやと思てたんどす」
「それ、臣の嫁はんやろ」
「やっぱりそうどしたか。なんかしら変な感じどした・・・」「そやけど、腱而さん宛の請求書も持ったはるし、『ちょっと事務所の整理をしてたら出てきましたから』とか『いろいろ代わりに大事なことだけは処理しています』とかおっしゃってたもんやから、腱而さんの奥さんとしか思わなかったんです」
「えー!なんでひとの奥さんがここのお支払をしはるんどすか?」
「女将さん、その女、別の用事で来よったんと違うか?」
「そうなんどす。実は『腱而が預けてたものを渡してください』と言わはるんどす。当然みたいお言いやすもんで、私もご主人のお使いやと疑わなかったんどす」
「お姐さん、何を預かってはったんどす?」
「何って…、中は知りまへんけど、書類か何かが入ってるような封筒のようなものでしたけど」
「いつごろ腱而は来よった?」
「そうどすね…もう二月くらい前どすやろか。お一人できはって、その日は事務所におそうまでいて、ちょっと疲れたさかいゆうて寄ってくれはったんどすけど、舞妓ちゃんも呼ばんでええとおっしゃって、お一人で飲んだはりましたけど。別に特に変わったとこもおへんどした。帰りに『ちょっと家に持って帰るのは具合が悪いので、これ、この次にくるまで預かっといてんか』と渡さはったんどす。結局、それ切りになってたんどすけど」
「その女の人に渡さはったんどすか?」
「いいや、なんぼ奥さんかて、お客さんからの預かりもんを勝手に渡したりできしません」「『携帯電話ででも結構ですから、ご本人からどこに持ってくるようにおっしゃっていただいたらお持ちします』というてお断りしたんどす」「そしたら、『主人は精神を病んでいて、もう普通に人と会話するのも無理なんです』と言わはるんどす。それで精神科の病院に入院されてるとわかったんどすけど」
「何が入っているんどす?先生」
「そら、開けてみたらわかることや。女将さんが今でも持ってはるんやから」
「そんなん、ようしません!だいいち、こわおす」
「たぶん、その葉書が入ってるんやと思う」「そうか…、ここに預けてたんか。わからへんはずや」「女将さん、よう渡さんといてくれはった。おおきに」
「そんなことないどすけど、なんでそれがここにあるてわかったんどすやろ」
「いや、確信持ってのことやないと思う。カマかけてきたんやと思うわ」「実は、ぼくのところにも探りをいれてきよったんや。それで腱而にどうなってるんか聞ことおもって連絡したんやけど、女将さんが言うように入院してるということやった。ほんまもんの奥さんから聞いたんやから間違いない。よっぽど恐ろしい目に遭うたんやろな」
先生は平然と話したはるんどすけど、うちは恐うて震えがきそうどした。
「それで、気になるから忍扶さんの親父さんに連絡してみたんや。神戸にお住まいやけど、腱而からおおよそ聞いていたからすぐにわかったんやけどな。それが、腱而が病気になったいうことを言うたら絶句してしもうて、ともかく京都に行きます言うんで翌日にきてもろたんや」「ご両親と、お姉さんも一緒に来てくれたんやけど、みーんな憔悴しきってのがようわかった」
うちも、女将さんも「なんでどす?」とゆうてはみましたけど、なんか恐い目に遭わはったらしいことはわかりました。それがどんなもんか気になるんどすけど、恐いもんやからなんにも言えへんのどす。ただ、じーっと先生の言わはるのを聞くだけどした。
「なんでそんなに憔悴してるのかは後でわかるんやけど、親父さんは『腱而さんに悪いことをした。こんなことになったんはわしの所為です』と頻りにお詫びしはるんや」「いったい、何があったんか聞かせてくれんかということで、親父さんと腱而が臣の嫁はんに会いに行ったときの話しをしてもらったから、それでだいたいのことがわかってきたんや」
「・・・・・・・」
「なんや、二人ともえらい緊張してるな。つゆちゃんがそないな真剣な顔でぼくを見つめてくれるんは初めてやなー。嬉しいけど、ちょっと照れてしまうわ」「女将さん、みんないっぺんビールのグラスを換えへんか。新しいナマを飲み直そうや」
先生がここでうちらをリラックスさせようとして気をつこうてくれたはるのはわかるんどすけど、本当は先生も思い出さはったいろんなこととか、女将さんから聞かはったこととかで、気持ちわるそうにしたはるのがわかってました。女将さんが自分もいれて三人分のビールを入れなおしてくれはって、カウンターに置いてくれはったんどすけど、ちょっと口にするだけで、あんまり飲めへんのどす。みんな、ほとんどしゃべらへんので、重苦しい雰囲気になってました。本当は、舞妓のうちが座を盛り上げなあかんのどすけど、とてもそんな余裕はありませんどした。
「さっきは、臣の嫁はんと忍扶さんの親とでバトルしたらええことで、ぼくらは知ったことやないて言ったやろ。それで終わりにしたかったんやけど、ここまできてしもたら、もう話しするしかないのでいうけどな…」「臣の嫁はんとこでの話やけど、腱而と親父さんが葉書のコピーを見せたら、もの凄うびっくりしたそうや。当然やと思うけど。その葉書が、本人の自筆であること、消印の日付もあることなどから効力は問題ないというような、ぼくから聞いた法律的な解説もしたらしい。つまり、お前の創った臣との死因贈与契約書はあるかもしれんけど、法律的には葉書が絶対に優先すると言ったんやろな。女は震えてたというから、よっぽど悔しかったんやろ。それを見て、親父さんがえらい強気になって『孫と娘が贈与されたものをこっちへ渡せ。お前のやったことはりっぱな犯罪や。しかも、債権者からしたら財産隠匿とおんなじやからバレたら誰も黙ってるはずがない。それを公表されたくなかったら、それまでに臣から奪ったお前名義の財産で看護婦さんらの退職金を支払え、取引先の債務も返済しろ』と逆に脅したらしい」「言うとくけど、腱而自身はそこまで全然おもってなかったんやで。臣が世話になった人が困ってるんやから、その人らにだけはちゃんとしてやってくれと女にプレッシャーをかけるだけのつもりやったらしい。ところが、親父さんが欲ぼけして暴走してしまったと自分でも言ってた。そこが呪われた金の呪縛やろな」
「それで、奥さんはどうしはることになったんどす」
「親父さんの話やけどな、別の部屋に待機してた男を呼んで、そこで聞いたことを話して相談してたらしい。陰湿で執念深そうな痩せた男やったということや。女には相当の悪知恵をふきこむバックがついてるとはぼくも思ってた。法律の裏技に通じてる高利貸しか整理屋あたりやと想像してるけど」「相手も不利やとわかったんやろな、最初は取引を持ちかけたりしたんやて。そやけど、親父さんはますます怒ってというか、図に乗ってというか、ボロクソに相手を罵倒して、逆に刑務所にいきたくなかったら全財産を引渡せとガンガン脅したらしい。この時点で腱而は親父さんを懸命に制止してたらしいんやけど・・・」
「お父さんもやり過ぎどすね。それにしてもおにいさん、かわいそう」
「うん、もっとかわいそうになるんやけどな、その前に相手の女もキレたそうや。親父さんに向って『おまえの娘は私の夫を誘惑した。誑かした。そして遺言書を書かせた。それこそ犯罪で被害者は自分やのに、不貞行為をしておきながら、その親が妻を脅すとはどういうことや。相続人というなら慰謝料を払え』と逆襲に出たらしい」「陰湿男も厳しいことを言いよったらしい。『葉書が死因贈与になるというのは無理。裁判になったらお前らの負けや。葉書が臣の意思やとしても不倫の相手に財産のほとんどを贈与するなんて無効や。仮に子供宛でも母親との不倫関係を続けるための方便やからおんなじや』と、こういう反撃やったということや」
うち、おビールやのうて、唾を呑み込んで喉が『ごくっ』ってなるのがわかりました。凄い喧嘩どすね。
「せんせ、どっちもどっちどすけど、なんや旗色がわるそうどすね」
「そうか。戸籍上だけでも夫婦してたというので正論に聞こえるんやろな」「しかし、まだまだきついとこ突きよるんや。こいつは相当勉強しとるで。『葉書で死因贈与したことになるというけど、それはこんな遺言書を書いたという報告にすぎひん。仮に、死因贈与の意思表示とこじつけても、忍扶はいつ承諾したことになるのや。報告書を見ても贈与するとは書いてないのに承諾なんてあり得ん。それに肝心の子供は生まれてないのと違うか。死産やのに生きて生まれたことに偽装してるんと違うか。同じ医者仲間やから少々のことは頼んだらしてくれるやろ。それに、仮に生まれたとしても母親は脳死状態だったはずやから赤子の相続人にはなれない。脳死というのはもう死んでるんや。死人は人ではないし相続もできない。お前らは二体の死人に相続させようとしてる亡者や』と。
これには腱而も親父も言い返せなかったらしい。無理もないけど。しかし、女とそのブレーンから金の亡者呼ばわりされるとは思わんかった。『お前に言われとうない』と言いたいとこやけど、ひけ目があるのも事実や。情けない」
「厭な言い合いどすね。ほんまに怨念かなんかが両方をお金の亡者にしてしもたんですやろか。そういえば、腱而さんも赤ちゃんが生きてた時間をどうかしてもらったとか言ってはりました」「先生、葉書も頼りないみたいやし、生きてへん人が相続するのも難しいようにおもうんどすけど、大丈夫なんどすか」
「まあ、ぼくはそんなもん貰わん方がよいと思ってるから、どうでもいいけど。しかし、裁判になって勝ってくれと言われたら勝つ自信はあるで。ちゃんと出生証明書もあるし、戸籍の子供欄に記載されてるし、子供を生んだ母親が死人やったなんてことは、医学上はあっても法律上あり得ないことになる。なによりも向うは契約書を偽造してるはずや。それを暴かれたらなんにも取ることなんかできひん。そのうえ、相続放棄も取り消されるやろから借金も相続しんならん。生前に名義を変えたんも仮装やと疑われるに決まってる。刑事事件で調べられたらみん白状するにきまってる。起訴されたら刑務所行きや。ぼくを敵にまわしたらタダでは済まんで、ナメンなよ」
「せんせ、すごーい。パチパチ・・・。見直しましたえ」
「ほんまにほめてくれてるんかいな…」「そやけど、むこうもその日は腱而と親父さんをだいぶん脅したらしい。何も自分らが悪いことしたわけやないから怖がらんでもいいはずやけど、素人の親父さんは分が悪いと思ったらしい。つゆちゃんがさっきそう思ったんとおんなじやな」「腱而は相手のハッタリくらいは見抜いてたと思うけど、なにせその日は親父さんがとんでもない要求を出したもんやから、それを機に一旦引き上げることにしたんや。また、後日に話をしましょうということにして」
「ふうん、お父さんが諦めはったんどすか」
「腱而はもうやめようってずいぶん説得したらしい。親父さんが来たときに言ってたわ、『なんで腱而さんのいうとおりにしなかったんやろ』って」「親父さんから聞いたところによると、一旦は諦めかけたそうや。そやけど女の方から『葉書を買いたい』という申し出があったので、また強気になってしもたらしい。ここがいかんのやけど、腱而には無断で交渉しよって、とうとう『一億円で葉書を売る、それ以外はお互いに一切干渉しない』という線で話がまとまったということや。それで、葉書の原本を預けている腱而に連絡して、『成果』を報告して原本を渡してくれというたんやけど、腱而が猛反対したそうや。そらそうやね。無断でそんな取引してるんやから。そんなことで死んだ忍扶も孫も臣もよろこんでくれるはずかないと腱而はいっしょうけんめい説得したらしい。本当は、祟りがあると言いたかったんやろけど、そんな話をしても到底親父さんを納得させられへんのは目に見えてるからね」「そこで腱而は、なんとしても葉書を女に渡したくなかったんやろな、もう破いて捨ててしもたと言い張ったらしい。そやけど、そんな言い訳、嘘にきまってると親父さんは見抜いていたそうや。それでも、どうしても腱而が渡してくれんので、とうとう腱而が持ってるはずやと女に腱而を売るんや。わずか三〇〇〇万円でや。ほんまに狂ってるわ。あんだけ親身になってくれた男をここにきて金で売るやなんて」
「おにいさん、ちっとも悪ないのに惨めどすね」「そやけど、お父さんもなんでそんなことしはったんやろ。そんなにお金がほしかったんやろか」
「いや、金目当てなら一億円で売れる葉書なんやから、あくまで渡せというはずや。ぼくが聞いたところでは、腱而がこの葉書で、自分だけ抜け駆けして、ひと儲けするつもりやないかと邪推したと告白しよった。つくづく人を狂わす金やと思わへんか」
「ひどい話どすねー。今になってお父さんは後悔したはるんどすか。お金はもらわはったんどすか」
「貰うてしもたところから親父さんと腱而の不幸が始まったみたいや。3000万円は女と陰湿男から現金で直接手渡されたそうやけど、その時に『これであんたもこっちの味方や。なんかあったら共犯ですから一連托生ですからね』と念押しされたそうや。その言葉で自分がしでかしたことに気付いて、自責の念にとらわれて苦しみだすのや。奥さんや娘さんにそのことを話したら、びっくりして『すぐ返してきて』となったそうやけど、今さら元に戻すなんて出来るわけがないやろ。そのうち、厭なことばかり身の回りで起こるようになるんや。すべてあの女の仕業やと思うけど、自分らが監視しているのをわからすためやろと思うけど、腱而から葉書の原本を奪れなかったイラ立ちもあったんやろな」
「なにがあったんどす?」
「気分が悪なるからあんまり言いたくないやけどな・・・。しょっちゅう家に無言電話がかかったり、気持ちの悪いもんが送られてきたりするようになったんや」「例えば、猫の死骸とか、蛇の死骸が入った荷物が来たり、家の前にニワトリの切り取った頭が置いてあったりするそうや」
「いやー!気持ちわるー!」
「そうやろ、奥さんも娘さんもまいってたわ」「そこに腱而が精神病か神経症で入院と聞いたから、自分の裏切りでそんな目に遭わせてしまったのがわかってるから、ともかくぼくに相談にきたというわけや」
怨 嗟
「そう、そう、おにいさんはなんで病気にならはったんどす」
「そこまで聞きたいか」
「もう、ここまで聞いてしもたんどす。そら気になります」
「ぼくもあんまり詳しいことはわからへんのやけど、女性問題で罠に陥されたらしい」
「へ?おにいさんの女性問題?うそどすやろ」
「うそいうたらうそかもしれんけど。超まじめなつきあいやけど、あいつが惚れてる女性がいたんはたしかや。知ってるか?」
「それは知りまへんけど、何度か一緒にここへ来はったお女(ひと)ならいはりますけど」
女将さんがすぐに反応しはりました。お茶屋さんに女性同伴で来はる殿方はめずらしいこともないのどす。
「きれいなお方どしたけど、あのひとやろか?」
「医大の女医さんやけど、大学の先生もしてて、学生にも人気がある女性なんや。清楚でおとなしうて、あんまりお喋りもしんと、いっつも人の話を聞いたはるようなひとやけど」
「たぶん、あのお方やとおもいますけど。つゆちゃんも一度くらい遭うたことないか?」
「へえ、一回ここでご一緒したような気がします。いつやったかはよう憶えてませんけど、きれいなお方やから、おにいさん冷やかしたら、ものすごう照れたはったように思います」「そやけど、あのお方が関係あるんどすか?」
「うん、まあ、あいつの片想いやったんやろな」「どっかでそれをあの女かバックの男が嗅ぎつけて、汚い手を使いやがった」
「どうしはったんどす?」
「彼女が医局の主任教授と関係しているという怪文書を医大の教員らに送りつけて、しかもネットの二チャンネルでえげつないデマを書き並べよった」「学生も二チャンネルを見てるアホがいるから無責任に噂をしよるし、どんどん広がってしもた」「頃合をみて、腱而の名前を出して、彼女とホテルに入るのを見たことがあるとか、三角関係で嫉妬した腱而があの怪文書をバラまいたらしいとか、もうムチャクチャやりだしよったんや」「極めつけは、彼女と腱而がラブホに入るところの合成写真をばら撒きよったことや」
「ひどーい!そんなん何とかできひんのどすか。もう、死刑にしたらええんどす」
「たまらんやろ。もちろん犯罪や。ぼくが腱而から頼まれて告訴したけど、警察が発信元をつきとめるまでには時間がかかるんや。それに、カネで人を使ってやっとるから、捕まえてもあいつらまで行き着くのはほとんど無理なんや」「その間に、腱而と彼女はボロボロにされてしもた」「葉書を渡せという脅迫を撥ねつけたからやけど、代償は高くついてしもた」「腱而も必死で彼女を護ろうとして、大学に説明に行ったりしたんやけど、かえって迷惑がられて、とうとう彼女は大学を辞めんならんとこまで追い詰められてしまって。なんにも悪ないし関係ないのに、申し訳ないことや。腱而は自分のせいやと悩んで苦しんで、どうお詫びしていいかわからへんかったんやろな。彼は彼なりの責任の取り方のつもりやったかもしれんけど、おそらく薬を呑んで死に損ねたんやろな、廃人になってしまいよった。それが腱而の現状や」
「・・・・・・」
うちも女将さんも言葉がありませんどした。なんちゅう仕打ちをするんやろ。妖怪かて負けそうなくらい醜いことをする女の人がいるやなんて、信じられしまへん。そやけど、単にお金や財産に対する欲やのうて、先生の言わはるように、その財産の由来に恐ろしい憑物がいて、それが人を悪魔にしてしまうようにおもえてきました。先生が貧乏神さんはむしろ守り神やといわはるのがわかるような気がします。
「ビールが温なってしもたな。喉も渇いてるけど、熱うい焼酎のお湯割りしてくれるか」
「あ、すんまへん。すぐに用意します」
我にかえって女将さんがお白湯を取りに奥の方へ小走りに入っていかはりました。うちはまだぼうっとして、なんにも言う気力がありませんどした。ぼんやりと考えてたんどす。『ほな、葉書は未だ見つかってへんのやろか』『女将さんが預かってはる封筒にはいってるんやろか』
「なんや、つゆちゃん。ぼーっとして」
「そうどすねん。背筋が冷とうなってますねん。ほんまに、神さんも仏さんもいやらへんのどすね…」
「そのとおり。神罰も仏罰もないのや。怨霊にとり憑かれたら救われへんのかもしれんな。ただし…」
「『ただし』なんどすか?」
「実はな、日本の神、仏も頼りないけど、あちらの神さんもエグイのとちがうやろか。どうも、臣の嫁さんにはバテレンに貢いでる気があるのや」
「バテレンって、せんせも古いどすね。クリスチャンどすか。いいなー、ロザリオを胸に付けてお祈りしたはるのんて、うちも憧れます」
「そら、いろいろあるやろけど、臣が『おれの家は呪いの館や。昼間はあいつらのたまり場になって好きに使こてよる。いくら稼いでも笊みたいに洩れてる』とこぼしてた。傍からは、わからん悩みやったんやろな。なんせ、家の掃除はせんでも、教会の掃除とか牧師、幹部の食事の世話、セミナー会場の準備なんかは何があっても行ったというからな」
「そんな信仰してはったら、お金なんか要らんし、お優しいのとちがうのどすか」
「何ゆうてんのや。宗教ほど金持ってるもんが威張れて居心地のいいとこはないんやで。カルト集団になったら、他の人間はみな異端者で邪悪な存在になってしまうのやから、亭主といえども大事に扱われるはずがないやろ。そら、腱而が死んで財産が自由になったら最高の祝福やろな」「逆に、その財産が相続できないとなったら執着するやろな」
「でもー、神さん信じてる人がそんなことしはるんどすやろか」
「異端者には何をしても許されると信じてるんとちがうか。怨霊は神にも化けよるから恐ろしい」
「神さんも頼りにならへんのどすか。それにしても、腱而さんも彼女も、なんでそんな目に遭わなあかんのどす。おにいさんは、『わしは相続人でもなんでもないから怨霊に悪さされることはない』ていうたはりましたえ」
「そうかぁ。そんなことまでつゆちゃんにいうてたんか。実は、それもぼくが言うたことなんや。葉書を持ってても臣の財産をもらう立場になるわけやないから、だれが持っててもそれだけで怨霊がとり憑くわけやないて言うたんや。それは間違いないはずやったんやけどな…」
「やっぱり欲張り女が悪いのどすやろか」
「うーん。それはそうなんやけど、嫁さんをそこまでさせたんは、臣の持ってた元の奥さんの保険金に憑いてる怨念やとしか思えへんけど」
「葉書なんか預からへんだらよかったんどすね。さっさと破いてしまわはったらよかったんどすね」
「そう言われるとぼくは辛い。親御さんに見せるべきやというたのはぼくやからな」「しかし、よう考えると、やっぱり葉書が怨念を引き寄せよったんとちがうか。そやろ、それを持ってるだけで金になるわけなんやから。現に親父さんは一億円で売りよった。腱而は親父さんに言われたときに渡せばよかったのに、それを拒絶してしもた。それが臣の嫁はんに対する武器に使うつもりやったとしてもや。泣かされている看護婦さんや債権者のために使おうとしたとしてもや。持ってることだけでとんでもない不幸を招いてしもたことにならへんか」
「やっぱりそうどすか。そしたら、その葉書は今どこにあるのやろ。もしかしたらここにあるのどすか」
「わからへんけど、可能性は高いとおもう」「見てみたいか?なんなら、それで奴らから大金をふんだくるか」
「いやどす、そんな怖いこと、絶対に嫌どす」
「2億とか3億やで」
「いりまへん、そんなん」
「わたしは欲しおすー」
と言いながら女将さんがポットと焼酎用のグラスを持って出てきはりました。
「お姐さん、ほんまどすか?」
「冗談や。せんせの話聞いたら、億のお金やから魅力はあるけど、祟りがこわーてよう持たしまへん」
「そやけど女将さん、腱而の預けてた封筒をいちおう開いて確かめといた方がいいと思うよ」
「私はようしませんけど、先生にお渡ししますさかい、先生のご判断でしとくりゃす」
「呪いの葉書やもんなー。こんなもん書かさへんだらよかった」
「ちょっと取ってきますさかい、先生が中身を見とうくりゃす。わたしとこかて、そんな嫌がらせされたら困ります。もう預かりとうおへん」
「それもそうやな。今となったらぼくが処分するしかないな。ともかく現物を確認しなあかんし、それを開けてみよか」
「ちょっと待っとくりゃっしゃ」
そういうて、女将さんがご自分の部屋に預かっている封筒を取りいかはりました。うちが先生のグラスにお湯を入れて焼酎を注いで差し出すと、先生はぐいっと飲まはって『しらふではやってられへんなー』とかいうてはりました。うちも自分の分と女将さんの分とをいっしょにつくって、女将さんが戻らはるのを待ってました。
「こんなんどすけど」
というて女将さんがビニール袋に無地の茶封筒が入れてあるのを持ってきはりました。そして、先生に手渡して『開けてみはりますか?』というてはったんどすけど、先生は『そうしんとわからへんやろ』とかいうて、案外平気な様子でした。
「さぁ、開くで。祟りの塊が霊気になって出てくるから気ぃつけや」
「やめとうくりゃす!」
先生が封筒を開かはったときは、女将さんもうちもおもわず身を引いてしまいました。先生は中をのぞき込んではりました。
「葉書は確かにある。そやけど、もうひとつ郵便封筒があるのやけど、なんやろ?」
というて、手を封筒の中に入れて葉書と封筒を取り出さはりました。その葉書の方をポンとうちの前に放らはったんで
「きゃー!」
とうちは跳び退いてしまったんどす。
「なに怖がってるのや。葉書はハガキや。ただの紙、それで金にしようなんて思わへんだらなんということもないやろ」
先生はそう言わはるんどすけど、うちにはなんかしらんその葉書から妖気があがってるような気がするんどす。裏面には細かい字でびっしり書かれていました。
忍扶へ
生まれてくる子のために本日遺言書を作成したのでお知らせします。
内容は、次に記した預貯金全部を生まれてくる子供に遺贈するというものです。無事に生まれたら、改めて公正証書遺言を君の承諾を得て作成するつもりです。なお、もし妻が遺言書の存在を否定するようなことをした場合は、この件でお世話になっている腱而君に相談して妻を訴えてください。また、妻は既にわたしの財産の半分を自分名義にしていますから、貴女が気遣うには及びません。
秘 策
「ふーん。やっぱり死ぬかもしれんて予感したはったんやろか」
と覗き込んではった女将さんが言わはりました。うちもそうおもいました。先生はもう一つの封筒を開けて中にあった便箋に何か書いてあるのを黙って読んではりました。
「せんせ、勝手に開けて読まはってもよろしいんどすか?」
「勝手もなにも、ぼく宛の封筒や。中身は腱而の遺言書やった」
「えー!おにいさんも遺言書書いてはったんどすか?」
「うん。例の女医さんとのことで死ぬ覚悟をしてたんやろな。その前に相談にきてくれたらよかったのに…。多分、ぼくが関わるなというたのに、親父さんと一緒になってその葉書で臣の嫁さんを脅したりしたんで、相談しにくかったんやろな」
「どんな遺言書なんどすか?」
「ものすごく単純や。それと、腱而が被保険者になってる生命保険の証書と印鑑が入ってた」
「いやー、また保険金どすか。だれがもらわはるにしても祟ったりしたら厭どすえ」
「どうも、そうなりそうやな。要するに、生命保険金の受取人を今の奥さんから女医さんに変更するというだけのことやけど、この保険金がまた凄い。死亡保険金が1億円2口や。合計が2億円になる」
「なんでまたそんなもんを『弥生』さんに預けはったんやろ。先生のとこならわかりますけど」
「女将さん、腱而がこれを持って来よったときは、事務所に遅くまでいたと言ってたんやね」
「へえ、そうどすけど」
「その日に事務所で書いて、それを置いておくのはちょっとまずいとおもったんやろな。多分、一時的に預かってもらって、いずれ頃合をみてぼくのところに持ってくるつもりやったのかもしれん。薬を呑んだんはもっと後やから。それと、ぼくがここに時々寄せてもらってるのは腱而にも言うたことがあるし、あいつが来てるとは知らんかったけど、最終的にぼくに届くとわかってたんかもしれん」
「おにいさんは、せんせのことは全然言わーらしまへんどした」
「まぁ、あんまり名前なんか出さんように気遣うてたんとちがうか。ぼくみたいなんかと知り合いやとわかったら舞妓ちゃんらから嫌われるもんな」
「そんなことおへんどす。そやけど、どうなるんどす、これから」
「そやなー。こんな遺言書を書かれたら腱而の奥さんも悔しいやろな」「そやけど、奥さんも感づいているのとちがうやろか。なんで臣の嫁さんが弥生の請求書を持って探りにきたのか不思議やったけど、おそらく腱而の嫁さんに『亭主に女がいる』とかいうて近づいたんとちがうやろか。奥さんも疑心暗鬼になって、事務所を掻き回してたのかもしれん。その際に、女が一緒に立ち会って、葉書は発見できひんかったけど請求書をみつけて、ひょっとしたらここに預けてるかもしれんと予想したんやとおもう。保険証書がなくなってるのにも気がついたやろし、そこで二人が腱而には共同戦線を張ることにしたというのは考えすぎやろか」
「ほな、おにいさんは奥さんからも責められてはったんやろか」
「そうなんやろな。ぼくには特に何も言わんかったけど、ネチネチやられてたんとちがうやろか。彼女に迷惑をかけてるという思いがあるうえに、女房からも責められては身がもたんかったやろな」
「殿方はかわいそうどすね。うちが知ってるおにいさんらは、どなたさんもええ人どすのに」
「ぼくもか?」
「せんせはちがいます。ええかげんやし、ずぼらやし、貧乏神さん連れてきはるし」
「かまへんや、それくらい」
「そやけど、先生、この葉書とその腱而さんの遺言書はどうしはるんどすか。もう、弥生ではよう預かりません。そんなん持ってたら奥さん方がまた取りにきはるかもしれんのどすやろ。そんなん、怖うて困ります。この前は知らんさかいお断りしましたけど」
「そうや。知らんかったら強いもんや。しかし、怨霊は知らんでもとり憑きよるで」
「そんなこと言わんといとーくりゃす、なあ、つゆちゃん」
「そうどす、みんなせんせの責任どす。それ持って、怨霊でも怨念でもどっかでお祓いしてもろてきとうくりゃす」
「きついこというな。ま、ぼくには貧乏神がついてるから大丈夫やけど」「これから臣の弔い合戦や。もう、こうなったら放っとけへん。腱而のためにもやるしかない。あの女の私文書偽造は告訴する。看護師さんや債権者の代理人になって死因贈与の無効確認請求をして財産を取り戻す。そしたら、相続放棄してよるからなんにも相続できひんことになる。相続財産管理人を選任してもろて看護師さんの退職金を払ったり債権者に分配してもらえる。生前中の名義変更も本当に贈与されたとはおもえへんけど、税務署にチクって調査してもらう。どうせ贈与税なんか払ってよらへんからボロボロになりよるとおもうで。そのうちに、2チャンネルの発信者も捕まるやろし、名誉毀損で告訴したことの成果も出てくるやろ」
「葉書はどうしはるんどすか?」
「燃やしてしまお。そうでないと悲劇が続きかねへん」
「腱而さんの遺言書はどうしはりますのん?」
「これやけどな。保険証書をよう読んでみると、もう保険金を請求できるようや。だから、奥さんはそのうち請求するんやないかと思うんや」
「え、まだおにいさん生きたはるんどすやろ」
「そうなんやけど、『高度障害保険金』いうてな、死亡に匹敵するくらいの障害を負った場合は死亡保険金と同額が支払われる保険らしい。腱而の現状は正にそれに該当する。間違いない」
「そやけど、証書がここにありますやろ。奥さんは証書なしでは請求できひんのとちがいますか」
「保険証書なんて紛失届けをしたら無くても大丈夫や。印鑑も改印届けしたら済むことや」
「そんなに簡単なんどすか」
「そうやで。むしろ、受取人の変更の方が面倒やな。遺言書でもできるはずやけど、まだ腱而は生きてるから遺言書の効力は発生してないし、受取人に指定された彼女といえども、今すぐ請求するというのは無理やろな」
「いやー、そんなひどい目に遭うたはるのに、かわいそうどす」
「そうか。そんなら奥さんが保険金を受け取る前に腱而が死んだ方がええのか」
「そんなこと思わしまへんけど…。先生、これもなんか呪われた保険金になりそうな気がしますね」
「そうやろ。もし、これを女医さんか奥さんに見せたら、どっちも狂わされてしまうかもしれんと思わへんか」「ぼくは、これもなかったことにした方がいいようにおもうのやけど、どやろ」
「そらそうどすけど、やっぱり腱而さんが死んで償うつもりで保険金を女医さんが受け取れるようにしはったんですやろ。それがまったく意味がのうなって、死にそこなっただけにならしまへんか」
「死に損ねたアホということか」
「そんなことゆうてしまへんけど、ご本人も彼女もお気の毒な気がしませんか。奥さんかて悪いような気もします」
「いや、確かに死に損ねたんや。目的を持って死ぬんやったら、しっかり最後まで死ななあかんのや」
「せんせ、やめとうくりゃす。『死ぬ』とか『死ね』とかばっかり。嫌いどすそんな言葉」
「つゆちゃんかて言うてるやんか。あかん、やっぱりこんな遺言書や葉書は死神が寄ってきよるみたいや。知らんうちにそんな話になってしまう」
先生はほんとうに困ったような顔してはるし、女将さんも不安そうな顔してはりました。そのときどす、お店の電話が鳴ったんどす。
「ほーら、つゆちゃん、遅いから屋形から帰っといでという電話や」
うちもさんざん恐いお話を聞いたんで、疲れたし、帰りとうなってました。それでホッとしたんどすけど、電話に出はった女将さんが
「ええ、そうどすけど・・・あ、はい。存じてます。・・・はあ、・・・あ、先生どすか。ここにいはります・・・いえ、かましまへん、かわりますさかい、ちょっと待っとくりゃすね」「先生、腱而さんのお友達の女性やそうどすけど、先生がここにいはるかとおもて電話しはったそうどす。あの女医さんとおもいますけど」
というて、先生に受話器を指し出さはりました。
「なんやろ、こんな遅くに…」「もしもし・・・そうです。はい、しばらくです。・・・そうですか、いえ、かまいません。・・・え?・・・」
先生はしばらく電話で話したはりました。うちは、また落ちつかへん気分になって、そやけど気になって帰るわけにもいかへんで、お湯割のお代わりをつくって飲んでました。だいぶんしてから、先生が電話を終わらはりました。
「やっぱり女医さんどしたんか?」
「うん。錫世さんというんやけど、ぼくがここに時々寄せてもらってるのは腱而から聞いてたんで、ひょっとしたらと思って電話したそうや。こんなに遅くというのは、わけがあって、腱而の奥さんに乗り込まれて、ついさっきまでいろいろ責められてたらしいんや。それで、やっとさっき帰ったんやけど、弥生に保険証書があるのとちがうかとか、臣も何か預けてるのとちがうかとか言ってたから、夜分やけど、言っといた方がいいと思って電話してくれたそうや」
「こっちへ来はるんやろか?どうしよう?」
「まあ、こんな真夜中に来るとはおもえへんけど」「ただな、腱而もえらいことしてくれてるんや。保険金の請求権を錫世さんに譲渡してたらしいんや」
「はあ?」
「遺言書を書くと同時に保険会社に請求権を譲渡したという通知をしてるらしいんや。それで、予想したとおり、奥さんが高度障害保険金を請求してたんやけど、既に腱而からそんな譲渡通知が来てたもんやから、支払いはできないと保険会社から拒絶されたんやろな。なんでそんなことになるのやと怒って文句をいうたんで、保険会社も仕方なく錫世さんが譲受人になってることを説明したもんやから、嫁さんが血相変えて乗り込んできたということらしい。そやけど、彼女も知らんかったらしい」
「ようわからしませんけど、どうなるんどす?」
「権利は譲渡いうて他人に移転できるわけや。それを債務者、今の場合は保険会社に対してやけど、対抗いうて権利を持ってることを主張できるためには、譲渡した権利者から債務者に、だれに譲ったかを通知しておかなあかんわけや。彼はそれを遺言書とは別にしておいたわけや。万一遺言書が奥さんに破られたり、隠されたりしたときのことを考えてたんやろな。臣に葉書を書かせたときの効果を見て学習したんやと思うけど」
「そしたら、錫世さんだけが保険金をもらえるのどすか」
「そうなるやろな。それに、今でも高度障害保険金が請求できることになってしもた」
「今度は、もうややこしいことないのどすやろ。はっきり錫世さんの権利になって喧嘩にならへんのとちがいますの」
「さあな~、2億円やで。奥さんの執念と腱而の想いが乗り移ってるんやで。ただですむとはおもえへんけど」
「そやけど、勝負はついてるんどすやろ。ええなー。祟りがないならうちかてほしいわ」
「いや、祟りはある。腱而の奥さんは臣の嫁さんと共同戦線で来よるとおもう。錫世さんは腱而の不倫相手やから、そんな保険金請求権の譲渡は公序良俗に反するから無効やと言い張るに決まってる。この裁判、ちょっとしんどいで」
「おにいさんと錫世さんはプラトニックとちごたんどすか」
「そうやとしても、妻が受取人になってるのに、その権利を譲渡するなんて普通やないと思われるやろ。お詫びと責任ゆうたかて、よけい疑われる可能性があるで」「腱而の覚悟と好意はいいんやけど、錫世さんにさらに辛い思いをさせてしまうことになるやろな。それが怨念に祟られるということやろ」
先生もうんざりしたご様子どした。
「もう、この遺言書を破棄しても手遅れやけど、葉書と一緒に燃やしてしまおか」
「ええのどすか、そんなして」
そのときです、お玄関がいきなり開けらた大きな音がしたんどす。だれかが入ってきはったと思ったら、もうそこに女の人がいはったという感じどす。ものすごい形相で立ったはるんどす。
「ごめんやす!腱而の家内です。主人がお預けしたもん、もらいに来ました」
女将さんが何かいいかけはったんどすけど、
「ごちゃごちゃ言わんとさっさと出しよし!」
と大声で怒鳴らはるんどす。うち、恐ろしいて奥の方へ逃げ出しました。先生の顔もひきつってはったけど、わりと落ち着いた声で
「これのことか。要るんやったら全部持っていったらええわ」
というて、そこにあったもん全部を差し出さはったんどす。そしたら、その女の人がひったくるようにしてそれを受けとらはって、ペラペラとめくって点検したはりました。うち、だいぶ離れたところから恐々見てたんどす。本当は普通の主婦なんやろけど、そのときは目が吊り上って、それこそ何かに憑かれたような顔どした。
「臣の葉書もその中にあるやろ。あの男の嫁さんが捜してたもんや。持って帰ったら喜ばれるで」
「おたくですか、腱而らに卑怯な知恵をつけてんのは」
そして、うちの方を睨んで
「主人がいれこんでた舞妓はこの娘か」
「その舞妓ちゃんはなんにも関係あらへん。それより、こんなに遅く、いきなり来るのは非常識や。帰ってくれへんか」
「あんなことされて、どっちが非常識ゆうんです」
「奥さん、臣の嫁さんに変なブレーンが付いてるようやけど、注意した方がええと思うよ。利用されてるだけかもしませんよ」
「なんでです?」
「まあ、ぼくは敵方の弁護士やから、あんまり言えませんけど、その葉書をあいつらがどんだけ欲しがってるかわかりますか。ぼくらはそんなもの要らんから奥さんにあげるけど、一度はあいつらがそれに一億円の値段をつけよったくらいのもんやとだけは言うときます」
女の人は急に不安そうな顔にならはったけど、全部を持っておとなしう帰っていかはりました。帰り際には女将さんにお詫びして出て行かはりました。うちもやっとドキドキがちょっとだけおさまって、せんせの隣にかけ直させてもろたんどす。
「あー、びっくりした。恐かったわー、うちのほう睨まはったときは。お姐さん、お茶いただけません?」
「わたしかてびっくりしました。こんな夜分に断りものう上りこんでくるやなんて、せっしょうどす。それにしても、なんや犬がきつう吼えてますね。こんな時間に吼えるようなことってなかったのに・・・」
「これで厄介払いができた。怨霊どももいっしょにあいつらのところに行きよった。腱而の嫁さんはあの葉書をタダでは渡しよらへんで。保険金が貰えへんかもわからんという不安があるはずやから、そうとう値段を吊り上げて売りつけるのとちがうやろか」
「せんせ、あの人らが喧嘩するように、けし掛けはったんどすか?」
「ぼくが言わんかて、あの葉書についた呪いが言わせるはずや。それがあの葉書を持った者の宿命やんか。もう、充分わかったやろ」
「それがみーんな無くなったんどすね。あー、なんかスッキリしました。せんせ、なんか、お腹空いてきました」
「そやな、うっとおしいモヤモヤが消えたんは確かやな。やっぱりあんなもん持ってたらあかんかったんや。何か食べに行こか。こんな時間でも開いてるとこは近所ならどこやろか」
先生がいわはるように、弥生さんになんとなく重苦しい気が漂ってたんがスーっと晴れていったような気分どす。そのときどした。
「こんばんわー、弥生さんのお姐さん。遅がけから堪忍どす。ちょっとよろしおすか?」
「あ、筋向いの『花柳』さんの女将さんや」
「へえ、どうぞあがっとくりゃす。つゆちゃんとお客さんがお一人おられるだけどす。もう終わりにして、なんぞ食べに行こかゆうてたとこどす」
「おじゃまします。つゆちゃん、おそうまでおきばりやなー」
「こんばんわー、おかあさん。おおきにー」
怨 霊 犬
「お客さんがいてはるのに、すいません。寄せてもろたというのは、さっきからうちのワンちゃんがやかましぃてすんまへん。けど、よそさんの犬もえらい興奮して吼えてましたやろ。みんな、お行儀のいいワンちゃんばっかりやのに、なんでそんな一斉に吼えるのやろかと表に出てみたんどす。そしたら、弥生さんとこから出ていかはった女の方に向ってどの犬も吼えてるんどす。ここの前の路は車が通らしまへんやろ、かわいそうに、ずうっと大通りまで歩かはる間中吼えられてはりました。ひょっとしたら、おきゃくさんでしたんか?」
「いや、お客さんやおへんし、特に気ぃつかわんならん人と違います」
「そうどすか、よかった。それでお聞きしたいのどすけど、あのおひとはどういうお方なんどすか?いや、変な聞き方して申し訳けないのどすけど、ちょっと気になったもんで・・・」
女将さんとうちはおもわず顔を見合わせて、それから二人そろって先生の方振り向いたんどす。先生もこっちの方を見てはりました。ちょっと困ったようなお顔でした。
「どういう人かと聞かれても・・・。知り合いの奥さんなんですけど、なんか気になることがあったんですか」
「はあ…、お知り合いどすか。言うていいもんか、どうか・・・」
「それは気にせんで結構です。知り合いというてもご主人の方で、奥さんとは初対面でしたから」
「そうどすか。ほな見たとおりお話させてもらいますけど、あのお方は犬を連れておいででしたか?」
「?・・・」
「そうどすよね。犬を屋形の中まで連れて入らはることはないでっしゃろねー。ほな、なんやったんやろ?」
「ちょっと待ってください。犬がここから出て行ったんですか」
「いえ、確かに見たというわけではないんどすけど、あのお方が弥生さんから出てきはったんは、お玄関の音もしましたし、そこからすぐのところを歩いたはったんでわかったんどす。わたしが見たときはもううちのすぐ近くまで来たはりましたけど、それが弥生さんから出てきはったことはようわかります」「ただ、その後から黒い大きな犬が出てきたように見えたんどすけど…、ひょっとしたら違うかも知れんのどすけど」
「そやかて、このへんにそんな犬いませんし、野良犬やろか・・・」
と、女将さんも腑に落ちひんというような口ぶりどした。
「それが真っ黒の大きな犬でして、目だけが異様に赤くて、はっきり言って気持ちわるーい犬ですねん。うちも犬を飼ってるくらいで、犬は好きどすけど、あんな獣くさい、きしょく悪いのは見たことないくらいどす。それに向うて、うちの犬がえらい吼えるんどすけど、なんか及び腰でビビッてるんですよ。それに、そんだけ吼えられてるのに、その犬ゆうたら、まったく知らんふりして無視して通り過ぎて行きますんやで、そんなことってありますやろか」
「・・・・・」
「その犬どすけど、女の人のすぐ後ろからついて行って、この前を通り過ぎるのは見てましたから確かどすけど、うちのワンちゃんが吼えるので撫ぜてやってたら、又よそさんの犬が吠え出したもんで、見てみたら黒い犬の姿が見えへんのどす。女の人の後姿だけは見ましたけど。どこかへ行くいうても、あそこら辺には横路もおへんどすやろ、おかしいなーとおもうて」「もうひとつ不思議どしたんは、あの女の人は、うちの犬が吼えるもんで、嫌そうな顔をしたはりました。そらわかります、よその家の犬に吼えられてええ気はしません。そやけど、自分のすぐそばに犬がいるような素振りがなんにもないんどす。こんなとこつれて歩くのに鎖も紐もつけへんいうのが考えにくいどすやろ。あのひと、犬がそばにいたんも気付いてやらへんだんとちがいますやろか」
「そうやとおもいます。普通やったら見えないのやろけど、犬が吼えたんで女将さんには見えたんと違いますか」
と、先生がむつかしい顔して、そやけどはっきり言わはりました。
「たぶん、ここから出て行った怨霊か物の怪やとおもいます。ぼくらも、何かがあの女と一緒に出て行ったような気がしてました」
「せんせ、うち恐い!」
「もう去ってしもたから大丈夫や」
「こんなときに、いやな音どすね。なんか込み入った事情がおありやったみたいどすけど、ともかく気になったんで言いにきたんどす。うち、帰りますわ。つゆちゃんも遅いからそこのおにいさんにおくってもらいよし」
「そうしょうか。つゆちゃん、また食欲なくなったやろ。今日はやめとこ。送っていくわ」
「そうしてもらえますか。うちも玄関閉めて早よ寝ますわ」
と女将さんも青い顔していわはるんどす。いつもやったら、うちを屋形まで送ってくれはるんどすけど。もちろん、うちは何か食べたいどころではなくなってました。
外に出て、石畳の路を先生といっしょに歩いてました。もうずいぶん遅いので、街灯やお茶屋さんの玄関にあるお提灯の灯で暗くはないのどすけど、人通りはおへんどした。そんな時間やのに、向うから四人ほどの人が歩いてきはったんのに出会いました。こんな時間に歩いたはるのは特別なことがあったとしか思えしまへん。なかに年配のお姐さんがいはったんで、さっきの救急車が気になって「何があったんどすか?」とお聞きしたんどす。
「あ、つゆちゃんか、こんばんは。恐いことが起こるもんやね。ついそこで、女の人が野犬に喉首を咬まれて血だらけになって倒れたはったんやて。この辺で野犬なんか見たことないのにねー」
うち、気がついたらせんせにしがみついてました。
ふーっ。ここまでで、このお話はおしまいどす。
節分の夜も明けてきました。物の怪も魔界へ帰った思います。後は春を待つだけどす。
おしまいに、うちの正体バラしてよろしおすか。おばけで舞妓に変身してたんどす。いえ、形を舞妓に化けたんとはちごうて、内の想いと心を空想の舞妓に移入して化けさせてもろたんどす。お聞き苦しい花街言葉ですみませんどした。これもおばけやとおもうてます。身形を変えることだけがおばけとちがいますえ。
ほな、来年の節分にはつゆ魅を呼んどぉくりゃす。よろしゅう、おたのもうしますー。
「そやけど…」
そのときどす、ピーポ、ピーポという救急車の音がして近くに停まりました。