碧 の 環
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「そうです。京都にいる彼女のためにこれがほしいのです。土産物ではなくて、彼女に着けてもらいたいものとしてどうしてもほしいのです。でも、今はお金を持っていません。なんとかお金を都合してきますから、それまでこれを売らないで置いといてもらえませんか」
「ふーん。・・・いつまで?」
「借りるあてがありませんし、借りた金ではなくて自分で稼いだ金で買いたいのですが、ごらんのとおり学生ですからアルバイトでしか稼げません。家庭教師のアルバイトはしていますが、それだけでは足りませんから、京都に帰ったら別のアルバイトもします。それでも年内いっぱいか年が明けてから、いや、もっと先かもしれません」
身勝手で甘えた理屈である。世間知らずの学生だから言えるとしても、通用する話ではない。
おやっさんが手を止めて聖世の顔を正面から見据えた。笑顔はなかった。
「おまえな、彼女をそんだけ待たすのか?それで、金ができたころに彼女がいなくなってたらどうする? それでもこれを買いにくるか?」
聖世は意味がわからなかった。彼女がいなくなるって、そんな想像なんてしたこともない。しかし、おやっさんは続ける。
「これから必死になってバイトして稼ぐということだよな。つまり、金に不自由しないなんていう身分じゃないわけだ。それじゃバイトばかりで遊ぶ時間もなくなる、たまに逢っても金は使えない、そんな退屈でケチクサイ男を女が待っていてくれると思うか?『おまえのために買いたいものがあるから我慢してくれ』なんてその女に言うのか?」
「・・・言うかも知れません」
「だろうよ。実際、そのとおりだもんな。それくらいの我慢はさせてもバチはあたんねーよな。しかしよ、聞かされた女はイヤだと思ってんよ。思うけど『我慢して待ってる』と言うしかねーよな。そうでも言わなきゃ悪女(わる)まる出しだからよ。カワイコぶるんだよ、その場は。それで男はもう耐えて我慢して頑張るだけと思っちゃうんだ、バカだね。で、多分その時は女もまんざら嘘でもないんだと思うよ。雰囲気なんだな。だけどね、実際に遊んでもらえない日が続くとだよ、自分のためだから我慢しろと言われてるようなもんだからおもしろくないわけだ。そうなりゃ、女は退屈が一番嫌いなんだから、どうなるかわかるだろ?」
現在(いま)ならわかる。しかし、その時の聖世に女の本性などわかるはずもない。また、彼女を女一般の一人とは思っていなかった。特別な女のはずだった。
おやっさんは続けた。
「勝手なもんだが、いろいろ愚痴を言い始めんだよ、女は。遠ざけているとか、放っているとかね。それで、にいさん、あんただって彼女のために必死に働いているのもわからん女にイライラするはずさ。それで別れることになるかどうかは知らんが、もう、にいさんがこれをそこまで必死になって買う理由がなくなりゃしんかと思うわけよ。はっきりいやー、俺にはその結末しか想像(み)えんのよ。となりゃ、わしがここで待っててもにいさんは来てくれんじゃろ」
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立ち去らない聖世の方を見て、おやっさんは手を止めた。少し苛立ったような声で言った。
「どんなことをしてもそれがほしいんじゃねーのか」
「どんなことをしてでもって…。お金をつくるのにきつい仕事だっていといませんが、ここでぼくにできることはそれまで待ってくださいとお願いするくらいしかできません」
「・・・・・・。わかったよ。これはにいさんに買ってもらうのがいいみたいだな。残しておくよ。どうせここではこんな上物は売れんし、こんな屋台の土産物屋にくるような連中には、豚に真珠だ。売るつもりはねーよ」
まさかの言葉に聖世は何も言えないで突っ立っていた。
おやっさんはニヤリと笑って続ける。
「しかしだな、にいさん学生だろ。勉強もしてもらわにゃならん。無理すんなよ。ずっと待っててやるからよ。そんでな、大人になって出世してだな、こんなもの屁でもないくらいの金を持ってきな。そんときは、もちろんこれも売ってやるが、もっといいもんも見せてやるよ」
「いえ、ぼくはこれがいいのです」
「わーってるよ。それは置いといてやるから心配すんな。惚れた女に贈(や)りたいから稼いで買いにくるまで待ってくれというのが気にいったんだ。さっき俺が言ったのは性根の悪い女のことよ。にいさんの彼女がそんな女だとは言ってねーよ。そんだけいい女がこれを着けてくれりゃー、創った男も喜ぶよ」
「ありがとうございます」
「バイトなんてケチなこと言わんで、偉い人になってだな『あのときの学生です』って声をかけてくれりゃー嬉しいんだよ」
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しかし、その店を見つけてどうするというのか、聖世はここにきて初めて真剣にそのことを自分に問いかけていた。仮におやっさんの店が見つかったとして、現在のその店主に四十年前のことを話せば、あの「碧の環」が即座に取り出されるとでも思っているのか。息子さんは、おやっさんから聖世との約束を聞かされいて、聖世がやってくるまでそれを売らずに待っていたとでも言ってくれると思っているのか。そして、四十年の歳月を経て聖世が約束を果たすため輪島に現れる、遂に戻ってきた聖世に息子はおやっさんから託されていたそれを引き渡して肩の荷を降ろす・・・・。
そんな空想が本当になったら、メルヘンを越えた漫画である。酒を飲みながら空想に浸っているのなら害はないが、ここから先はその現実を確かめることになる。聖世が輪島に来たということは、それに着手できるところにまできたということである。
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