再現とコメントです。
40年以上も前の若造はこんなことを言ってたのですね。
弁護士武装論
―真夏の夜の夢―
山 名 隆 男
さんざん悪事をはたらいて弱い者をいじめ甘い汁をすって金をもうけたりしているのに、何ら罰せられないで平然としている悪人をバッサリと殺ってしまう陰の処刑人―テレビの時代劇でよく見る筋書である。実際、そこで虐げられ、殺されていく善良な人々はまったくあわれである。この人たちの怨念を晴らすべき公権力機関が腐敗していて悪人は平然としている、というのがたいがいの筋書だからまったく闇の奉行だろうが陰の処刑人だろうが、ともかくこういう正義の報復者が現わなければ無力な善人はうかばれないであろう。
ところで、現在の、現実のなかにも法の網の目をかいくぐって弱い者をいじめるやからはいないであろうか。テレビドラマの悪人ほど極端でなくても、暴力と金の力で市民を威圧し、反抗を封じて不当に大きな利得をしながら警察等の追及にはいつも安全圏にいる。時としてそれが目にあまる違法行為に及んで処罰されるようなことがあっても、その行為に対する応報としてはとうてい釣り合いがとれてないと(市民感情としては)思われるようなことを我々は経験しないであろうか。暴力団や暴力金融業者らの関わっている事件を担当するとき、私はこんなことを思ってならない。彼らの暴力を恐れて、理不尽な要求に屈したり、奪われたものを取り返せず泣きねいりをやむなくされたりする無力な市民にとって、我々弁護士は残念ながらそれほど頼りになるものではなさそうである。もちろん、そうであってはならないし、我々法律家も努力し、いわゆる民事暴力対策にも真剣に取り組まねばならないのであるが、それはそれとして、私は自分に暴力に対抗できる「実力」があったとしたら……と妄想するのである。
この「実力」というのは、正に物理的な力をいうのである。空手、柔道、剣道、プロレス、ヌンチャク……ともかくなんでもよいから合法的な武装をする。弁護士自身が何らかの心得があり強ければ望ましいことであるが、だれもが武道の達人というわけにはいかないし、またそれだけでは足りないと思う。やはりそのために組織され、日常的に鍛錬をしている集団をつくるのが最も強力であろう。弁護士はこの「実力」を唯一不当暴力に対抗するためにのみ発動し、またコントロールしなければならない。正義が、権利が、人権が、暴力によって侵されようとしているとき、手遅れになる前に必要な防禦をこの実力によってする。だれもが不当な暴力の脅しや、威圧に恐れる必要はもうなくなった。民事不介入の原則とやらを繰り返えしたり、現に被害の発生がないことを理由に(診断書はあるか?証人はいるか?等々)動こうとしない警察では保護されなかった弱者も、安心して自分達の正当な要求を恐れずに主張できる。それでこそ法律上の手続によって権利を実現できる土壌ができるのではないか。法が保証する権利といえども、手遅れになっては回復できない場合や、できるとしても非常に困難な場合が多い。不当な暴力や脅しによって無防備な市民が受ける被害は、法が事後的な回復を保証するだけでは足りないし、まったく無意味な場合さえある。(暴力団員に対する損害賠償判決を得てもいかほどの賠償を期待できるであろうか)だから、この「実力」は弁護士が指揮する私的警察機構なのである。
もっとも、「力」の保有や行使を主張すれば必ずや反発を受けるであろうし、その危険性や誤りを指摘されるのは必至であろう。今は未だ私の妄想であり試論にも至らない段階だから議論をする気もないが、弁護士が暴力に対抗できる実力を持つとすれば、どのような組織、どのような機構であるべきかを一度真剣に考えて批判に耐え得るものにしたい。問題はいろいろあるが、弁護士は誤りなく正義の実現と不当な暴力に対抗するためにのみ力を行使するという大前提が成り立たねばならない。公権力外で、物理的な力を正しく行使できるのは、その専門的知識等からしても弁護士をおいて外にはないと信じたい。これが承認されるならあとはほとんど組織論の問題であり解決可能であろう。ただ弁護士も人間であり強力な力を持った時、常にそれを正義と弱者保護にのみ行使できるであろうか。かくて私は堂々めぐりを繰り返しながらも、いつか我が山名法律事務所特務班(?)を指揮して勇躍暴力整理屋、暴力金融業者らを放逐することを夢見るのである。
私は武道の心得は毫もないし、力もない(金もないけど色男でもない)。ただヤクザに脅されたからといって屈したことはない。しかし、正直いって恐しいし彼らを相手にするのは気がめいる。闘争的な意味で弱い私のような者は、常に暴力の威嚇下にあるのでこんな夢をみるのかも……。
昭和五六年九月の弁護士会会報に載った記事です。タイトルにインパクトがあったのでしょう、いろんな人から冷やかされた憶えがあります。しかし、自分から投稿したというのではなく、広報委員会から何か書けといわれてのことだったのは間違いありません。
当時は、弁護士が襲われるとか、命を奪われるほど攻撃を受けるようなことはあまり聞いたことがありませんでした。そのせいか、弁護士自身が身を護るために武装をするという発想ではなくて、依頼者や市民を護るために武装するのだと言っています。それと、被害や損害と吊り合わない極悪人に対する軽い処罰に憤っていたのかもしれません。時代劇「仕事人」のイントロのようなものが書き出しになっていりのは司法の限界を感じていたのでしょう。元々、司法手続きが弱者の救済にはまどろっこしいのであって、アウトロー的に力で制裁をしてしまうドラマの感覚からすれば、法は追求の足枷であって、悪人が逃げのびるのを助ける道具のようにさえ人々には見えていたのかもしれません。
「市民にとって我々弁護士はそれほど頼りになるものではなさそうである」というのは、現在はどうでしょう。弁護士の数が飛躍的に多くなったこともあるのでしょうけれど、現在は、弁護士がそれほどひ弱には見えません。何よりも市民に信頼され頼りにされているように思います。それは、やはりミンボウ対策に真剣に取り組んできたからに違いありません。ただ、そこに書いているように「それはそれとして」、私はやはり「暴力に対抗できる実力があったとしたら」という妄想を未だ吹っ切れていないでいます。それなのに、「私」は合法的な武装を提唱しながら自らを鍛えることは怠ってきました。今さら空手や柔道など無理。剣道、プロレスもイヤ。となると・・・確か防御用の刺(さす)股(また)とかの宣伝パンフレットをもらったことがあったけれど、あくまで防御用だし、体力的に振り回すのも、はなはだ心もとない。飛び道具といってもパチンコくらいしか思いつかない。あ~ぁ、情けない。
かくて同じ台詞をつぶやくしかないのですが、あの頃と違うのは、お世辞でも否定してくれる人はいないという現実です。 『私は武道の心得は毫もないし、力もない(金もないけど色男でもない)』